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何度でも戻ってみよう [震災の風景その2]

昨21日朝、金環日食なる天体ショーを樂しんだ。雲を通して現れた太陽のリングは美しい形だった。太陽は月との距離の400倍あり、大きさも400倍であるという奇跡的な太陽・月・地球の配置が作り出すショーであった。
東日本大震災と同様、大阪・名古屋・東京で観測できたのは千年に一度のことだという。

何度でも戻ってみよう。東日本大震災は震災と人災の二つの側面があった。
そのうち震災による津波被害に関しては、がれき処理や被災地全体の基盤整備、嵩上げや高台移転、漁業を中心とした産業の回復などの復興の道筋のもとで、3年で鉄道や道路、防潮堤、あるいは5年で嵩上げや高台移転による市街地整備といった一定のタイムスケジュールに従って収斂の姿を現し出すはずだった
。避難生活から生活再建への移行もその時間をめどに組み立てることができた。

しかし最近、収斂しない可能性もでてきているように感じている。
それは避難生活の長期化に伴い若人たちの移動が進み、限界都市一歩手前の超高齢社会に直面する復興市街地の姿であり、巨費を要する土木事業を伴う復興計画に対する公助の経済的限界のため復興が滞りかねないことが被災地を取り巻く危険性である。
もう一つの側面は、震源だった日本海溝周囲に生じた歪で起こりつつある地震の活発化が不気味さを増しており、東海から東南海、南海にかけての三連動の海溝型地震の可能性が高まっていることにある。さらに富士山の活火山への変貌も懸念され始めているし、首都直下型の活断層による地震の発生も危険性を弱めたわけではない。
今回の大震災による被災への取り組み一つに終わらない、さらに広域化し複雑化する被災の可能性が、今の時代に暗い影を落としている。

さて人災に関してである。
福島は脱原発という価値観を伴って拡散して、世界を一周して日本に戻る。それはエネルギー問題と危険性との兼ね合いによる。
人々が抱いた放射能汚染による恐怖は、広島・長崎の原爆の被害や第五福竜丸の被爆と無関係ではないし、いまだ進行中のチェルノブイリの悲劇と密接に繋がっている。如何に学者や政治家が安全を語ろうとも、事故後の対応の不備を前に蓄積されてきた彼らに対する不信感はそれを上回る。理屈ではないのだ。それを集団ヒステリー症状と揶揄しようとも、彼らを安心に向けて説得することは難しい。
最大の問題は、1号機では漏水のため格納容器の水位が40cmを切った可能性がある、4号機は燃料プールの崩壊の危険性が指摘されており関東一円に影響を及ぼす大事故を誘発する可能性がぬぐい切れないなど、福島第一原発の事故が収束の気配を見せていないという情報がいまだに流れ続けていることだ。廃炉しか選ぶ道がなかった福島の事故を起こした4つの原発はもう我が国の原発の員数には含まれていないが、我々は福島第一原発1~4号機としか呼ぶすべがない。

汚染水として原発から直接に、そして河川を経由して間接に海に流れ出、海の生物の連鎖に影響を与え出している海の放射能汚染は太平洋を広く犯す。森林に降る雨にとどまらず、人為による除染行為は、河川の放射能汚染を促し、海に流れ出る。海の上に見える2500万トンともいわれる流出がれきのうち3割程度が漂流がれきとなり、見えない放射能が海を徐々に汚染し、魚を汚染し、太平洋に広がる。

汚染された地域に戻るには、汚染が減衰する時間と生活の場で放射線量を低下させる除染が必要になる。
中間貯蔵施設もないままに除染するという行為は、汚染物質を除去・移動し、生活の場のそばに捨てるか、除染した汚染水を河川に流す移染にしかならない。
役所が帰村しても、避難していることが経済的に有利になる生活保障が継続する限り、村民は帰村しはしない。人災は進行中である。

エネルギー問題に対して、先ずは原発の再稼動の選択ではなく、昨年と同様に省エネしか対処の方法はない。拙速な原発再稼働の動きは、せっかく生じつつある討議型民主主義の芽を摘む。安心・安全かそれとも経済かという二項対立的問題設定ではなく、経済優先であった論理を少し横に置き、政治はまず国民の安全を守ることを選択すべきだろう。これをチャンスとして立ち止まり、これから辿る方向を合意すべきということだし、新たな意思決定の仕組みを模索するきっかけとすべきなのだと思う。

ソ連の崩壊と時期的に一致したバブル崩壊は、戦後奇跡的に生じた我が国の20世紀後半の繁栄にとどめを刺した。それから失われた20年が経ち、持続型社会は遠く、そこで生じた3.11は再度価値観を変え、21世紀に正面から向き合うための転機だったようにも思える。そのことを何度でも反芻する。

公助は自助をつぶす [震災の風景その2]

連休の初めに、御殿場に筍掘りに出かけた。例年と同様、美味しいものをたんと頂いた。富士山が大きく、白くきれいだった。連休の後半、近所の碑文谷公園でこどもの日のイベントで模擬店を出した。1日中晴れだった。天候が思わしくなかった連休で、個人的なイベントはたまたま好天に恵まれた。

こどもの日、日本国内の原発50基がすべて稼働停止した。4月から、福島第一原発の4基は廃炉扱いとなり原発としては数えないとのことだ。再稼動か、それとも脱原発かの議論を前に、現実的に脱原発が始まり、その状態を前提として、議論が進むことになる。
しかし、原発が稼働しようが停止しようが、施設内にある放射性元素の質量は変わらない。停止中の原発であっても、何らかのきっかけで炉内の放射性物質が飛散するリスクはなくなってはいない。廃炉に向かって工程を歩み始めた福島第一原発は再稼働の選択はなくなったが、危険がなくなったわけではない。また停止した浜岡原発が、津波によって破損し、福島第一原発と同様にメルトダウンする可能性もあるから、原発を停止し、脱原発の道を選択しようとも、十分な震災・津波対策を講じておかなくてはならない。
廃炉といっても、稼働を停止すれば済むという話ではなく、廃炉にこぎつけ、核廃棄物を最終的に処分するところまで計画する必要がある。震災復興と絡めて、当面急ぐべきは、放射能で汚染された廃棄物の貯蔵場所・方法の決定である。

次の日、つくば市や益子・茂木等、筑波山麓で竜巻による被害があった。車が飛び、屋根が飛び、木造家屋が倒壊し、ビルのガラスが砕け散った。コンクリート製の電柱も折れていた。国内では最大級の竜巻だったとのことだ。竜巻被害の映像は、自然災害の厳しさを、東日本大震災の被害を思い出させる。連休中の大雨といい、自然災害の規模は大きくなっている。以前、地球温暖化にその原因があると聞いたことがある。
1年と少し経ち、様々ながれきが太平洋を越え、アメリカ・カナダに漂着し始めている。船の次はオートバイだ。これからも、震災がれきは太平洋を海流に乗って漂流し、来年までに4万トンものがれきが北米沿岸に漂着するという。そして、残りの一部はいずれ日本に戻ってくる。漂流物は見えるが、放射能に汚染された海水も後を追うように海流とともに巡回する。希釈されていくとは言え、いずれ放射能汚染が太平洋を覆う。震災被害は、そのようにゆっくりとではあるが、確実に拡散し、忘れたころに頭をもたげる。

震災復興への懸念は、計画案が、市街地の高台移転、高い防潮堤+地盤のかさ上げ、幹線道路によるアクセスなど、全て公助をベースに組み立てられているとしか理解できない情報のためである。その計画を前に、個人は先行して住む場に自前で戻ることはできない。その計画が実現するまで、避難生活を続ける以外どうしようもないのだ。いわば、自助が奪い取られている。
原発被災についても構造は同じであり、救済措置である生活保障が大きければ、地域の放射線量が薄まり、居住制限が解かれ、帰還が認められても、被災地にあえて戻ろうとする意志は働くまい。過度な対応は公助と同じ効果をもたらす。
このままではでは半永久的に復興が達成できない地区が現れるだろう。そんなことを憂いている。

春の嵐 [震災の風景その2]

もう一週間も前のこと、前後に春の嵐があった4月1日の碑文谷公園の桜フェスティバル、天気に恵まれ、3500人は集まったと本部は鼻高々だった。ポニーの引き馬は400人に迫る記録更新、ひっきりなしに動いた起震車、子どもたちが群がった大道芸、消防署の様々な防災企画、煙体験、一日中いてくれた白バイ二台と消防自動車、お客がひっきりなしの模擬店、久し振りの和太鼓、体育館のニュースポーツ、野外のスポーツ、池周りの公園での福祉バザー、花鉢売り、桜は蕾だったが大勢の参加者だった。昨年は中止したが、もう12回目だ。
その後、5日に小石川後楽園の枝垂れ桜に会い、播磨坂と小石川植物園に花見。7日は石神井川、王子から板橋までのまち歩き。残りは、砧公園と登戸の二ヶ領用水の桜だ。

野田内閣による原発再稼動へのお墨付き、何とも情けないな。再稼動のみを照準にした駆け込み的新安全基準、特にそこに盛り込まれる計画の有り無しでの評価が驚きだった。計画があっても、実際に対応がなければ実効性はないのに、何度も繰り返す危機管理の甘さを露呈する。
形振り構わず、再稼動の道をひた走りに走る姿は、まさに裸の王様である。
福島第一原発に対して、低温冷却状態とのたまい、勝手に安全宣言しても、その後も放射能漏れは続き、事故は収束していない。何が事故の原因であるかも解明されていないし、廃炉の見通しも立っていないし、中間処理施設の計画も、最終処分場の計画もできていない。即ち福島第一原発事故の検証がなされていないのに、勝手にパスすることを前提とした新基準を設け、再稼動へ一歩先に進もうとしている。
彼の何を信じろというのだろう。余りのことに、言葉を失う。

4月9日、関西電力は大飯原発の再稼動に向けて行程表を提出したとのこと。過酷事故の際対策拠点となる面震事務棟の工事、フィルター付きベント設備は15年度に設置する予定とすることで、再稼動の妥当性の判断が下される。対応が完成する15年度ではなく、今すぐに再稼動が認められる。
保安院、安全委に問題がありと思ってきたが、最大の問題は政治判断と称する内閣と時の与党にあった。枝野通産相が、地元に理解を得に出向くという。理解とは同意ではないと明言した上での地元訪問は、地元への再稼動の通告である。
国の原発再稼動への決断に対して、関係自治体からは反対表明が出され、マスコミから異論が相次いでいる。もう一度頭を冷やして出直して欲しい。

誰が、どう責任を取れるというのだろう。東電は、原発被災に対して、賠償面で、そして被災地を従前の環境に戻すという面で、責任を取れなかった。人知を超えた原発事故はそれほどに罪深い。それにも拘らず、原発を使えないことを理由に値上げを一方的に通知する東電の態度に、消費者は怒る。
政府もまた責任を負えない。地元の要望どおりの復興計画の場合、それこそ国は破産するだろう。復興の先に何を見据えているのか、分からない。人口減少時代において価値観を変えてゆく必要があるのに、やっていることは旧来のままだ。歳出は必要性の総和だが、それを支える歳入の目途が立たない。
何か狂っている。何も噛み合わない。

嘗て道路族が闊歩した、公共事業の名を借りた利権を生み出す土建工事が、復興の名のもとで復活する。
折角コンクリートから人へという国が進むべき方向を打ち出したのに、また戻る。事業凍結などという甘い処理の仕方が間違っていた。計画をゼロにする必要があったのだろう。
消費税もそうだが、野田政権に理の一つも見出すことができない。

大震災の際に海に流出したがれきが、太平洋を漂流し、北米海域に到着し始めており、来年2月までに4万トンが到着するという。その処理をどうするのか、先日カナダ沖に漂着した船は、沈没させざるを得なかった。
広域処理の名のもとで、被災地の震災がれき受け入れが、市町村に踏み絵のように突きつけられた。放射能汚染を免れた西の地域から、政府の甘い基準での判断下では、放射能汚染の拡散だという批判が出、やっと議論が噛み合い出している。

笑顔のファシズムか。橋下に対して抱く胡散臭さはそこにありそうだ。震災ゴミの受け入れ、脱原発というのも、彼の場合、大衆迎合的なパフォーマンスによる。権力の頂点に立つや、自分の思考を押し付け、魔女狩り紛いのことをし、多様性を認めようとしない彼を、評価することはできない。

今年の桜は遅い [震災の風景その2]

今年の桜は遅い。昨日小石川後楽園に行ったが、例年であれば満開を過ぎた頃なのに、枝垂桜は未だ蕾を硬くしており、梅が残っていた。
今度の日曜日、碑文谷公園で第12回桜フェスティバルを開催するが、桜は望み薄である。去年、大震災があり、フェスティバルを自粛し、今年こそ2年分をと意気込んでいたが、桜は蕾のまま、残念に終わりそうだ。

大災害は、それまでの矛盾を顕在化する。或いは、現代の問題を総ざらいにすると言われる。それでは今日の問題とは何だろう。
東日本大震災が起きたとき、少子高齢化と同時並行する人口減少、2人を切った東京の世帯人口、失われた20年間の間に定着した右肩下がりの縮減する経済、就職氷河期の継続、円高・グローバル化による空洞化の促進、利益優先の結果の非正社員の増大、敗者を自己責任に帰す貧困社会、富が偏在する格差社会、情報社会の進展による価値観など様々な分野での断絶、税収の倍の歳出、GDPの倍という膨大な財政赤字、団塊の世代の退職、人口構成の変化から破綻寸前の年金制度や健康保険制度、福祉名目の増税の必要性、日本型雇用や日本型福祉社会の崩壊など戦後システムの終焉、政権交代後も続くねじれ国会、期待外れの民主党政治、政治不信の増大と民主主義の変容、遅々たる地方分権の動きなどが問題だった。
それらは、震災後も継続したもので、何も顕在化したわけではない。復興は、このような問題をもつ社会の中で進められる。

大震災後、原発事故に象徴的に現れたが、国は情報隠蔽体質を露にし、縦割りの官僚システムが回復し、政治よりも行政が主導する日本型民主主義が戻ってきた。
また事業仕分けで槍玉に挙げられ、一時は無駄とされた公共事業が復興の名を借りて戻ってきた。
そして、戦前・戦中を支配した無責任体制がよみがえってきた。
改革の名のもとで一時力をそがれた戦後の仕組みの一部、官僚主義が復活し、大きな政府が戻ってきた。

ただこの一年での変化は、悪い面だけではない。
情報社会の進展と、若い人たちのボランティアの活動、ネット社会の構築を背景にした新たな動き、例えば広域被災に対応した全国に情報を張り巡らせた被災地での救援体制、NPOの活躍、国会議事堂を取り巻いた都内での脱原発集会など、目を見張るものがある。

これからの復興はどうなるのだろう。

地震・津波によって原発が事故を起こし、放射能汚染を撒き散らした。その高濃度汚染を低減させる方策はなく、時間に委ねるだけだ。当初、事故の厳しさを隠し、多くの住民を被曝させた政府に対する不信は大きい。
被災地のなかでも、復興の目途が立つ三陸地域及び宮城の平地地域と、帰村できず復興できない原発事故の汚染地域とは、分けて考えないとなるまい。
汚染地域にあっても、心配が残る居住可能地域の扱いが当面最も問題である。被災に伴う補償金が、働いた場合よりも多ければ、働こうとするインセンティブはなくなることも、新たに生じた問題である。
復興バブルとささやかれている東北は、公共投資の対象として救世主になるのか、それとも人手不足を理由にした高い買い物になるのか。

原発事故の結果、日本の中で非居住地が生まれた。永続的居住放棄地が生まれた。廃炉まで半世紀はかかりそうだ。福島県を中心とした農業生産物だけでなく、近海の魚介類も危うい。風評被害は情報隠蔽から生まれた。三陸や宮城の平地部は徐々に回復するが、福島での農林漁業はいつ復活するのだろう。産業の復活なくして帰村は覚束ない。

福島第一原発、第2号機で60cmしか水がたまっていなかったという報道あり。予想は水深3mだった。膨大な汚染水が、地下に漏れ、海に流れ出てゆく現実を突きつけられる。そんな状況にもかかわらず、現政権は原発再稼動に着々と準備を怠らない。
福島の事故が未だ分析されていないというのに、安全であるという答を導き出すための条件を入れて算定するという昔からの方法で評価し、大飯原発の再稼動にゴーサインを送った保安院、安全委員会、彼らはどこを向いているのだろう。
首相野田は「想定外を想定する」という。今、想定外なのは原発の再稼動だ。

ジャブジャブの無駄遣いと言っていた公共投資の復活、高台移転、巨大な防潮堤、地盤の嵩上げによる市街地造成など、それによっていわゆる土建屋が復権する。それは財政赤字を膨らませてきた一因だった。年1兆円を簡単に超す復興事業がもたらす復興バブルはそのような予感をさせる。
被災者にとって土地をどうするかが最大の問題だが、事業者にとっては簡単なルーチンワーク、例えば評価基準のない除染を手始めに儲かればよい。
国が采配を取る復興は、地域のことよりも、全国の事情を優先する。

がれき処理は遅々として進まず、放射能がれきは中間貯蔵施設の場所さえ未定である。がれき処理プラントの候補地ががれきで埋まっており、復興の遅れにつながるといるというが、そこに人は住んでいない。何故、踏み絵的な方法で広域処理を進めようとするのか。そこに胡散臭さを感じる。
折角の地方自治を実験するチャンスを、国が潰していく。

投資顧問会社AIJ社長のとんでもない詐欺行為が明らかになった。企業年金1458億円の消失を淡々と述べ、新たな基金の契約を返済や自分への年7000万円の報酬に当てたことを悪びれずに口に出す。もとカリスマの証券マンだったという。預かった金の運用は自分の権利であり、そこで損をしても許されるはずだという発想は、狂っているとしか思えない。
原発被災者に対する補償金の算定もさることながら、今回明らかになった東電の詐欺紛いの値上げ交渉、現在の電力供給の仕組みを維持するのが義務であり、原発が再稼動するまで電気料金を値上げするのは権利である、そして値上げに応じなければ電気の供給を停止するとした態度は、腹立たしさを越していた。原発事故に対する責任や、元の環境条件に戻すことを少しも考えていない彼らも狂っている。
そして消費税問題で揺れる政権は、まさに政治の空転としか言いようがない。財政立て直しには歳出削減を先行すべきはずが、震災復興を理由に、社会資本への投資の重要性に立ち戻り、外環道や八つ場ダムなどを復活させる等、大盤振る舞いしてしまった。
何か、日本が抱える問題が、一回り大きくなってしまった。

復興事業・脱原発・次世代のことなど [震災の風景その2]

3.11日比谷公園の脱原発集会に行った。主催者発表3万人という。様々な催しがなされていた。
黙祷の後、東電前を通るデモ・主催者発表1万人に加わったが、途中で疲れ、5時にリタイアした。国会を囲む人の鎖には参加しなかった。国会を囲む蝋燭を持った人々の風景を見なかったのは少し残念だが、昔から私はそうだった。現場を見ていないで今まで来てしまったのだ。今はネットでその様子を把握することができる。
考えてみれば、国会周囲のデモで国会を包囲したのは60年安保の時以来だから、半世紀ぶりということになる。今の若い人たちは、あっさりとハードルを超える。

震度7ともいわれる直下型地震、東海・東南海・南海の三連動地震が口の端にのぼっている折、大きな地震にびくっとする。大震災後1年経っても、余震なのだろうか。

国土交通省の「復興まちづくり情報INDEX」を見る。嘗てあった何でもありの世界の再来が垣間見られる。
嵩上げや高台移転、防波堤など、自助努力では対応できない土建による土木事業が、復興の姿に形を変えて、被災地でまかり通る。併せて地域の幹線道路整備、港湾整備など、まさに焼け太りである。公共事業に対して低くなったハードルが、八つ場ダムや外環道整備の事業に結びつく。
この時代に、地元にではなく、中央に金が回収される土建業のバブルが必要なのだろうか。

被曝量の許容値がまちまちで、除染に対する方針が揺れ動き、着地が見えないが、除染事業に対してもスーパーゼネコンが手を上げる。
高濃度に汚染された地域で戻ることができるのは何年後なのだろう。仮に20年だとすると、高齢者にとっては残る一生分である。若い人たちに待てということは誰にも言えない。たとえ行政が帰村を決めたとしても、不安にさいなまれている住民は戻るのだろうか。

廃棄物に対して、kg当たり6000ベクレルまで許容するとした国の基準に対して、地方の基準は50~100ベクレルという開きも徐々に明らかになってきた。西日本での放射能拡散反対の意見も少しずつ紹介されるようになってきた。
それに対して、瓦礫を受け入れない地方たたきが、マスコミを通じてあからさまになってきている。国は、瓦礫処理の遅れが恰も地域外での受け入れが進んでいないせいと印象付けたいのだろう。被災瓦礫の地域外処理も金でつる。
復興の道全てが金をばら撒く国に握られていく。

放射能汚染されていないという証明書つきの瓦礫すら受け入れ手がいないのに、まして放射能汚染されている土や廃棄物を30年貯蔵する中間貯蔵施設を受け入れることを、住民を含めて同意することはどこでもできないだろう。
4号炉の燃料プールが危険で、仮に崩壊したら日本は終わりだというメールが届く。廃炉を決定しても、実際に廃炉に至るまでに半世紀かかる。それまでに大事故が発生する可能性もあるし、最終処分施設を準備しておく必要がある。
そうか、首都直下型の地震、或いは東海地震がなくとも、このまま終焉していくのだなと突然に口のそばまで言葉が出てくる。

価値観が急激に変化しているし、社会行動も大きく変わっている。変化はいつ頃からだろうか。
バブル崩壊後の20年の空白期の間に徐々に進んだのだろうか。リーマンショックがあり、民主党が政権をとった頃からかな。小泉・竹中コンビが持ち込んだ新自由主義の浸透により、格差社会が急激に進行したせいかもしれない。価値観の変化は、政治に対する不信の増大も原因の一つだろうし、情報社会の到来ゆえだろう。
東日本大震災の中でも、特に原発事故で破綻した安全神話、国策の正当性、余りに自分勝手だった想定、それらが過去からの流れの継続に止めを刺したように思う。
そして、ツイッターやブログの活用などによる震災被害情報の拡散や救援の組織化、脱原発集会の呼び掛けまで至った状況は、明らかに次の世代の台頭を感じさせた。

女川町の2,3階建てのベランダ付の多層コンテナ仮設住宅、釜石、南三陸町、志津川、気仙沼、大船渡、石巻などでの仮設商店街など、コミュニティを考えた計画があった。住田町の木造仮設住宅、陸前高田の緩やかな配置計画で建てられた木造仮設住宅群など、新たな試みがなされたことも、心を和ませる情報だった。
変わっていくのは、個々の現場からなのだろうな。

こんなことを書いていた時、吉本隆明の訃報が飛び込んできた。
世代が交代していく。

早くも3月 [震災の風景その2]

寒い年だ。今年の梅は、例年より一ヶ月も遅い。
2月23日時点で、避難者数は343,935人だという。その内放射能汚染にさらされている福島県は被災地として同列に扱うべきかどうか難しいところだが、避難指示区域からの避難者数11.4万人、福島県全体の避難者数15.8万人(内福島県外6.2万人)という。

岩手、宮城両県で2000万トン、全体で、被災地域で処理される10年分相当以上(岩手で11年分、宮城で19年分)の廃棄物発生量といわれる、大震災によって生じた瓦礫の処理が当面大きな課題になってきている。
被災後一年経って、瓦礫処分は、全体の5%に過ぎないという。政府が目標とする2014年3月末までの処分完了は、難しいだろう。
遅れている原因は何かが気になる。その理由の一つに、20%分は広域処理を必要としているものの、瓦礫の引き受け手が東京など限定的なことにあるといわれている。
放射能汚染されていない瓦礫であっても、東北というだけで受け入れ先の住民が不信の目でみる。これも福島の放射能が原因であり、被災地外の人々の拒否反応によって惹き起こされている。私には過剰反応と見受けられた、大文字焼きのときの被災地の松の受け入れ拒否、仙台の花火の拒否、沖縄での青森の雪の受け入れ拒否などを思い出す。また福島からの避難民が、苛めにあっているというニュースもあった。
これら全てを風評被害というべきかどうか迷う。

兎に角、安全の基準が一体何なのかが見えてこない。低線量被曝としても、食などを通じた内部被曝が何を生じさせるのか。
除染補助の基準は1~20ミリシーベルトの地域を対象にするとしたことから、1ミリシーベルトが安全基準だと思っていたが、帰村の基準とした20ミリシーベルトは安心できるレベルなのかどうか不明だ。2月末、国が除染費用の負担をする重点地域は、追加被ばく線量が5ミリシーベルト以上とされた。1~5ミリシーベルトの地域は、市町村の負担になるが、膨大な範囲である。
いつの間にか、放射能汚染に対する東電の責任はどこかにいってしまった。
しかし、この入り乱れた基準は何から来ているのだろうか。帰村したとしても、除染の効果が分からない。雨が降り、周囲の森から流れ出れば、元の木阿弥ではないか。誰も、確定的なことは語ることができない。

海洋汚染が広がってきているようだ。東京湾の原発事故由来のセシウム濃度が上昇しているという。
陸上に降り注いだ分が廃棄物になって生活を脅かす。下水処理場やごみ焼却所は放射能汚染され保管せざるを得ない廃棄物によって遠からず満杯になる。汚染された処理汚泥は、リサイクルできない。汚染土は仮置きされたまま放置されている。
福島を中心に、広域で放射性廃棄物の中間貯蔵施設を必要としているが、候補地を決めるには周辺住民の合意を得る必要が出てくる。これも暗礁に乗り上げそうだ。

三陸復興で公園再編として、青森県八戸市から宮城県石巻市までの自然公園を三陸復興国立公園として指定する予定だというニュースがあった。
国立公園だと、様々な規制がかかることになるが、自然保護や文化体験の場として位置づけることができる。人口減少が更に進み、限界地域になる可能性がある50年後のことを考えると、消失集落が順次公園になっていく物語を描くことができる。100年後は、沿岸部は自然が勝る公園となる。そこに、海の眺望を阻害する大きな防潮堤は似合わない。
近視眼的な、規制緩和である特区などによる開発より数段将来を見ようとしている。

時事ドットコムで、集団移転、住民合意は2割、高台や内陸に集団移転を予定している地区数は244で、住民合意された地区は47であるという。岩手は41地区のうち23地区、宮城は154地区のうち21地区、福島は49地区のうち3地区である。災害公営住宅の計画戸数は11,029で、仮設住宅入居2年間を迎える13年8月末の完成戸数は662と報道された。
帰村はいかにして可能なのだろう。復興への第一歩である恒久住宅への帰還は、どのくらいかかるのだろう。

今年の311には、Peace on Earthの集会に出ようかなと考えている。

帰村と50年後のことなど [震災の風景その2]

復興は人の手による。復興に関わる失敗、例えば復興の遅れにとどまらず、住民の合意のない計画、採算の取れない施設計画、地域医療の不備、地場産業の喪失などは、原因が何であろうと、人災である。
特に問題となる復興自体の遅れは、福島では原発事故の後遺症、他の地域では復興計画の合意の遅れ、瓦礫の処理の難しさ、産業の空洞化による働き口の減少などに起因する。瓦礫処理は被災地にあって自前では不可能であるが、救いの手を伸ばすべき多くの市町村が、放射能汚染を忌避する住民の反対により受け入れができない状況にある。その報道は、この夏の京都の大文字焼きを思い出させる。この遅れによって、地元に戻る目途が立たない事態として被災者に圧し掛かり、徐々に戻らないことの選択を増やしていき、被災地の将来の可能性が狭められていく。どのくらいの時間なら我慢ができるのだろう。
長期化する避難生活は、非日常ではなく、日常に変わる。出来上がった地区から、移転可能者が五月雨式に戻り、復興が進んでいく可能性が増している。しかし、仕事場と生活、商店と住宅が一体的に復帰しなければ、元の地域での生活はうまく回転していかない。

復興計画において不可欠である50年後の被災地の姿を想定してみよう。
千年に一度の災害に対応する計画は、膨大な事業予算を投じる国の意向を反映させるために、上意下達の意思決定が必要であり、人々の営みを通した自然形成的な形を持たない。
このままでは、50年後、海と陸は高い堤防によって切り離され、美しい三陸海岸を楽しみに来ていた観光客が来なくなる。復興に時間がかかり、若い人たちが戻ることを選ばなかった被災地では、人口が激減し、小集落は廃村となり、市街地であっても高齢者だけが住む限界集落が、高台のあちこちに分布し、静かに消失を待っている。福島では、高濃度に汚染された放射線量が期待ほどに下がらず、半減期を過ぎても、ついに戻ることができなかった地域があった。その地域はそのまま放置され、畑は森になった。汚染水が流され続けたため、福島の漁業は、未だに制約を受けている。第一原発は廃炉一歩手前に漕ぎ着けたが、そのままの状態で放置され、最終処分場扱いとなった。放射能に汚染された物・汚染土もどこにも持っていけずに、集約された中間貯蔵施設は、最終処分場に変わっていく。
経済が下降線を描き続け、貧困問題が格差社会の進行のもとで顕わになり、人口減少が始まったときに襲った大震災である。このような悪夢を避けるにはどうしたらよいのだろう。日常の生業を大切にした復興計画ができて欲しい。

膨大な復興財源の投入により、復興バブルともいえる現象が土建業において始まっているという。受注した巨額の事業を下請けに出し、その上前をはね、利益を吸い上げるのは、元請になるスーパーゼネコン各社だ。
被災地で先行する公共投資が、何年かかるか、そしてどの程度の予算がかかるか分からない、何も生産しない除染の作業である。目標値も設定できない、放射線量を下げるだけの除染事業を果たして復興事業というのだろうか。除染といっても、放射線物質を他に移動させるという方法で、除染作業を行った地点の放射線量を低減するに過ぎない。水によって除染すれば、その水が流れていく先の河川であり、海が汚染されていく。草木を切り取れば、その捨て場の汚染度が高くなる。そして雨が降れば、山林から汚染された葉や土が流れてきて、放射線量を上げる。

この除染事業を公共事業に位置づける件が象徴しているのが、一つは東日本大震災における人災の大きさと、原因者である福島第一原発・東電の責任範囲の曖昧さが招く公共部門への責任転換である。そのため、現在、除染活動もせず、対応に誠実さが見えない東電による電気料金の値上げが問題視されている。それは、公務員・議員の痛みを避けて増税議論をする現政権と同じ、不信を増大させる構図である。
もう一つが、復興を通じての財源の地元への還元の少なさである。大盤振る舞いされる復興事業の主体は、多くは東京に本社を置く企業である。地元は良くて下請けで、通常は労務提供者になる。復興に投じられる費用は、地元で回転していかないのだ。地元住民は復興主体から降ろされ、計画への参加を認められないまま、黙って復興を見守る。

店仕舞の計画のイメージ [震災の風景その2]

経済のピークは過ぎ、人口が減少し続け、高齢化が更に進む、今流行りの言葉で表現すれば、下山の時代である。都市の計画においても、そろそろ身支度し、地方都市を畳む準備に入る店仕舞の時期に来ている。
EU危機と比較して、最近よく指摘されているように、GDPの二倍に匹敵する債務残高は厳しく圧し掛かっており、経済の成長期に作り出されてきた日本のルールは破綻寸前である。それは官僚依存型の中央集権的な仕組み、人口ピラミッドを前提とした社会福祉などであるが、何よりも経済の拡大を前提とした物指しの元での将来像である。そして21世紀初頭、新自由主義の下で加えられた格差社会への変貌があった。その影響は過疎地域に位置づけられる被災地域で大きく現れる。

そのせいか、一段の超高齢化・人口減少が進む東日本の被災地において、高台移転、或いは地盤の嵩上げなどに象徴される、巨費を投じて、復興市街地を造る計画のありように、違和感が付きまとう。
確かに安全は何よりも増して優先される。しかし、いつまで日本は、財政破綻を回避しつつ、巨額な公共投資を続けることができるのだろう。また、それらの工事を請け負うのは、地域の事業者ではない。言い換えれば、地元の懐に入らない公助が復興の姿である。
復興は、それぞれの被災者が果たす課題であって、市街地の整備等はその条件作りであり、目的ではない。

人口減少を前にして、下山してゆくに際して心掛けるべき、地方都市を畳む準備、都市の縮退に対応できる計画とは、例えば、下地を公園計画とし、その上に市街地を描くことが考えられる。住宅の底地は公園用地、公有地である。そうすれば、市街地が縮退していくに従って、非居住になった住宅が少しずつ公園になってゆく。選択的に移動できれば、住宅の集合地区をその都度作り出せる。
そのようにして限界市街地の状況を先延ばしにすることができる。最終的に市街地が消失したとき、全てが公園に変わる。そして。公園の管理が難しくなったとき、自然の風景に変わっていく。

従って、硬い建物は避け、処分が簡単な木造建築であることが優位になる。過疎地域での計画の理念は、近代の人工が優位だった歴史から離れ、自然に戻るための準備なのだと言えないだろうか。

比較的近いのは、田園都市=ガーデン・シティのイメージなのかもしれない。ウィキペディアによれば、「ハワードの提案は、人口3万人程度の限定された規模の、自然と共生し、自律した職住近接型の緑豊かな都市を都市周辺に建設しようとする構想である。そこでは住宅には庭があり、近くに公園や森もあり、周囲は農地に取り囲まれている。不動産は賃貸し、不動産賃貸料で建設資金を償還するので、都市発展による地価上昇利益が土地所有者によって私有化されず、町全体のために役立てられる。」

或いは、低層の共同住宅が分散的に配置されるような別荘地の計画と考えたらどうだろう。これならばアクセス道路と都市インフラ、そして最小限の土地の整地でよく、安く付き、地方の力でも対応が可能だろう。必要に応じて、自助の部分を盛り込んでも良い。将来、居住者を失った別荘は、そのまま朽ち、森に戻ってゆく。

今まで、市街地や集落の縮退に伴って生じる放棄地が、打ち捨てられてきた。そこは市街地のごみためになっている。処分ができないのは、私有財産であり、処分の応諾が必要になるためだ。
だから、森に還ることを念頭においた復興市街地は公有地の借地という形式にする。地上権は、土地の利用権で年々更新とし、引き払うときは更地状態とする。

ここ数年の不況の結果、工事請負会社の絶対数が減少していること、工事量が多すぎて(労務者一人当たり7倍の需要量)、労働者の確保ができないこと、需給バランスが崩れ、人件費が高騰していることなどの理由から、復興事業の落札率が下がっているとのことだ。
工事費の高騰は、復興事業だけでなく、民間の家屋の新築に対してもダメージを与えるだろう。復興事業は、思いのほか費用、時間がかかりそうだ。

これから膨大な労務者を必要とする除染事業が始まるが、大手のスーパーゼネコンが名乗りを上げている。除染事業は、巨額を必要とするが、原発事故がなければ生じなかった、それ自体、何の生産にも寄与しない空しい作業である。
低線量被曝に対する評価は揺れ動いている。一度行政不信に陥った被災者の信を得るのは容易ではない。従前の状態に戻るには、数十年を必要とする。それまで待てる人は少ない。どの程度の水準になれば、住民が納得した上での帰村宣言になるのだろう。

小さな物語と店仕舞の準備 [震災の風景その2]

先週行った熱海梅園は早咲きの梅一分咲きだった。今年は、本当に寒い。春の気配がしない。豪雪でもある。地震の影響があった長野県栄村では雪のために橋が折れた。

そろそろ震災から1年に近くなる。孫は発災四日前の3月7日に生まれた。未だ病院の中で大きな揺れを経験したはずだ。その二日後に、精神を病んで冬の間入院していた私が退院した。その二日後に襲った大きな揺れは、自宅で経験した。すぐ外に出たが、家が悲鳴を上げ、電柱がきしみ、電線が大きく揺れていた。長い間、地面が揺れていた。

そして、凄まじい、悲しい映像が何日もの間続いた。巨大津波によって沿岸の市街地や集落は壊滅し、2万人もの方が犠牲になった。引き潮でビルも倒壊した。田老では高さ10mの二重の堤防が破壊された。港では、大きな船が内陸まで運び込まれ、自動車が海中に放り出された。大きな火災もあった。土盛りした地域では、液状化によって、地盤が壊れ、ライフラインがやられた。地盤沈下した港では、今もなお水を被り続ける。

福島第一原発のメルトダウン、放射能汚染もその震災の中のヒトコマであった。理不尽であるが、水俣でチッソが生き残ったように、福島で東電が生き残るのだ。政府も東電も、保安委も、原発事故の様々な関係者も、平然と生き残る。

今まで、多くの人の3.11がネット上に掲載されてきた。阪神大震災のときとの最大の違いは、様々に流れた民間の情報だろう。広域に対する救援は、この時代だから可能だった。マスメディアにより流された「頑張ろう東北」「頑張ろう福島」の標語は、被災者を一緒くたにし、少数の意見の違いを消し去ってしまった。1年近くたっても、瓦礫はうずたかく被災地に積まれている。復興計画ができたという情報が流れても、被災地では、整地一つ始まらず、家一軒も新築されようとしていない。

33万人を超す方が、避難先で年を越した。今年は、21世紀に入り最も寒く、豪雪の冬だ。厳冬の中、避難住民は戻る算段もできていない。
大震災を、様々に生じた小さな物語の総和として見、それぞれの物語を語り、耳を傾けることが大切になっている。
小さな物語、店仕舞の準備、この二つの言葉が、私にとって今の状況に対する切り口になりつつある。

世紀末から世紀初頭、ベルリンの壁崩壊後の混沌、バブル崩壊後の失われた20年、情報革命、グローバリゼーション、新自由主義の台頭、リーマンショック、超高齢下の人口減少時代、1千兆円になる膨大な財政赤字、政権交代への期待と失望、格差社会の深刻化、BRICSの台頭とアラブの春等、今まで現在に焦点を当てる際、大情況から語ってきた。そのアプローチの仕方が何となく状況説明をしていると感じていたからだ。

しかし、3.11は、大状況でなく、巨大津波を伴った大震災と原発事故による複合災害から始まる。被災は、日常の生活と同じように、百人百様である。大震災後、今日の諸状況が意味を持ち出すのは、復興という文字を重ね合わせたときだ。小さな場面を見ている限り、余りに被災地の条件は異なり、全体像には至らない。自助を考えていっても、高台への移転や地盤の嵩上げには至らない。被災は個別に生じたのに、国の意向を反映した上から目線で作られた復興計画は個別事情を横に置く。そこに大きな分断がある。

復興計画を考えようとしても、人口減少に伴う都市・集落の縮退が最大のテーマになり、原発にとどまらず、どのように店仕舞をしていくかが頭の中を占めていく。今まで、創ること、或いは保持することを課題として都市やまちの計画を考えてきた。だから縮退する市街地の具体像を計画として提示することが難しい。都市の維持管理費は投資規模に比例する。限界都市になることが分かっているのに、何故、莫大な予算を講じて復興させようとするのか。何故、人々の手が届く規模の計画では駄目なのか。

政府が除染の行程表を如何に作っても、元の状態に戻るとは誰も思っていない。放射能汚染された地域では、マイナス分を埋める復旧すら数年から数十年かかる。農地での生産活動は、高濃度汚染地域では禁止される。その間に、過去営々と生業を続け、更新し続けてきた美しい飯館の農の風景は潰える。農の風景が持続可能性を表現していたことに気づく。そんなとき、唐突に聞こえた川内村の帰村宣言は、住民の不安にどうやって答え、生活の糧である職をどのように確保していくのだろう。

限界集落で見つめるべきは、そこで残り、消失まで生き延びていく人たちなのだろう。その人たちのための居場所づくりが、農・漁村の復興のテーマである。立派でメインテナンスが高くつくような都市づくりではない。
阪神大震災後、共助の重要性が説かれ、NPO法ができ、地方分権法ができた。都市計画では、マスタープランが盛り込まれ、住民による提案制度ができた。
公助が優先された東日本大震災後、脱原発への舵を取らざるを得ず、エネルギーに対する考え方は変わるだろうが、何か新たなものが生まれるのだろう。
私は、じっとしているだけだ。何もできずにじっとしている。

除染を条件とした帰村宣言、記されなかった議事録、復興バブルの負の連鎖、揺れ動く低線量被曝の基準、原発40年稼動の認定、欺瞞的な冷温停止宣言……。
八つ場ダムの事業凍結を声高に主張した前原、沖縄の基地問題の難しさを引きずり出した鳩山、浜岡原発を停止させ、脱原発を口にした菅、いずれもこれまでの政治決定に対するアンチテーゼの提示であったが、いずれも覆されるか、尻すぼみになった。反小沢とも言うべき消費税率アップを掲げた野田政権は、自公政治の踏襲に舵をとった。

阪神大震災から17年 [震災の風景その2]

阪神淡路大震災から17年、早いものだ。いずれの時代も大きな閉塞感が漂っているが、20世紀末の当時と、21世紀初頭に近く起こった東日本大震災後の今、何が違うのだろうか。

震災の象徴的な風景は、阪神淡路では阪神高速道路やビルの倒壊と密集した市街地の火災であった。
南北500kmに及ぶ被災を生じた東日本では津波によって陸地深く運ばれた船であり、破壊された堤防であり、流された沿岸の市街地であった。液状化も深刻だった。そしてそれに長く尾を引く、現在進行形の福島原発の爆発事故が加わった。

阪神淡路の際は、都市災害であり、元住んでいた場に戻る上での復旧は当然であり、その先の復興の姿が現代都市の中で、右肩上がりの発想のもとで語られていた。
東日本にあっては、沿岸部の漁業・農業の被災が主であり、復旧の議論よりも例えば高台の新たな土地のもとでの復興が取り上げられ、人口減少下の限界都市の想定もしながら減災の姿を描く必要が生じている。そして、福島原発の周囲では放射能の影響で居住することができない広大な地域を抱えている。東日本では、元に戻ることは必ずしも答えではないのだ。

社会不安を反映したオウム問題も同時に生じた17年前、バブル崩壊の爪あとが残り、日本で失われた10年の不況期に突入していた。世界では、90年前後のソ連・東欧崩壊、ベルリンの壁が終焉し、EU統合が準備され、地球環境問題がグローバルな課題であった。
今日は新自由主義下で生じた、サブプライム問題、リーマンショック後の世界同時不況が進行し、EU危機が叫ばれている。グローバル経済は現在の方が遥かに厳しく、アメリカ一極の構造が失われつつある。中国がGDP2位の地位を日本から奪い、IT革命を背景にしたアラブの春が伝えられ、地球温暖化も深刻化している。日本では、平成不況から脱することができず、人口減少時代が始まり、格差社会が進行し、就職氷河期の終わりが見えない。

戦後50年目であり、不況とはいえ、平等幻想が未だ多少残っていた、経済が世界二位であった17年前に比べて、50年前の昭和30年代の高度成長期が懐かしさをもって語られ、格差社会のもとで貧困層が切り捨てられ、中国に経済規模に引けをとることになった今日、未来に向けた夢が語られることが少なくなったように感じる。
それは、様々なことをやり残していた50歳のときと、高齢者の仲間入りをし、人に馴染むことを難しくしている私自身の比較のせいだけではないだろう。
超高齢化し、人口減少する時代、時代も成熟期を経て縮退期へ、拡大した都市や街をしまう時代への移行において、活性化といった右肩上がりの発想から脱し、一歩一歩階段を下りてゆくにはどうしたらよいのかという今まで真剣に問うことをしなかった課題に向き合うことになったようだ。

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