ラトゥーシュの話題の本 [メモ]
ラトゥーシュの話題の本(経済成長なき社会発展は可能か?/作品社)は、表現だけでなく、このような、成長そのものが悪であるといった経済思想に不慣れな私にとって難解で、途中で挫折している。私には、様々な形容詞付きの発展主義への疑義の強調が、持続的成長と安易にいってしまってきたことへの反省として、投げ掛けられたような気がした。
私にとって難しいというのは、特に要点である脱成長の姿が分からない(この本の結語が、芸術は無用なものであるが故に絶対に必要なのだ)というところだが、兎に角も、成長や発展という言葉にある志向性がことごとく批判されていることから、その姿が見えていくのだろうという感じがしてはいる。となると、表題にある社会発展すら疑問がわくが、本書を貫く反語的表現として取り敢えず押さえておくことにする。
有体に言えば、グローバリゼーション下の先進国の市場主義の論理である持続的開発批判(オゾン層と産業の同時生存という願い、発展概念の自文化中心主義、先進国以外は経済的恩恵を受けない、発展は格差を促す等)から、ポスト開発・脱成長の経済を提唱し、地域に焦点をあて、環境を評価軸にして、8つの再生プロジェクト(再評価、概念の再構築、社会の際構造化、再配分、再ローカリゼーション、削減、再利用、リサイクル)を通して、人間性を回復するといった流れかなと感じてはいる。先進国だけでなく、アフリカでも、幸せになれる方法論の提示といった方が私にとって分かりやすそうだが、最後まで読み、再読しないと何とも言えない。メモには時間がかかりそうだ。
これから10日ばかり、休憩する。
私にとって難しいというのは、特に要点である脱成長の姿が分からない(この本の結語が、芸術は無用なものであるが故に絶対に必要なのだ)というところだが、兎に角も、成長や発展という言葉にある志向性がことごとく批判されていることから、その姿が見えていくのだろうという感じがしてはいる。となると、表題にある社会発展すら疑問がわくが、本書を貫く反語的表現として取り敢えず押さえておくことにする。
有体に言えば、グローバリゼーション下の先進国の市場主義の論理である持続的開発批判(オゾン層と産業の同時生存という願い、発展概念の自文化中心主義、先進国以外は経済的恩恵を受けない、発展は格差を促す等)から、ポスト開発・脱成長の経済を提唱し、地域に焦点をあて、環境を評価軸にして、8つの再生プロジェクト(再評価、概念の再構築、社会の際構造化、再配分、再ローカリゼーション、削減、再利用、リサイクル)を通して、人間性を回復するといった流れかなと感じてはいる。先進国だけでなく、アフリカでも、幸せになれる方法論の提示といった方が私にとって分かりやすそうだが、最後まで読み、再読しないと何とも言えない。メモには時間がかかりそうだ。
これから10日ばかり、休憩する。
昨日615のシンポジウムのこと [メモ]
昨日「シンポジウム60年安保闘争の記録と記憶」を安田講堂に聴きにいった。上野千鶴子さんと小熊英二さんが出るというので、興味を覚えたのだ。樺さんの50周年にあたる6月15日にはいくつかのイベントがあったが、昔の名前よりも、この企画が魅力だった。
コーディネーター上野千鶴子さんの冒頭の挨拶は概ねこうだった。「60年安保闘争は失敗した戦後最大の社会運動だった。奇しくも50年後、普天間問題で首相が交代に追い込まれる事態になり、安保は今日的な課題として位置している。今日シンポジウムを開く意義がそこにある。」
続いて、パネリストの一人、リンダ・ホーグランドさんが監督した映画「ANPO」ダイジェスト版が、上映された。彼女の映像の動機は、「60年のトラウマが日本にある。当時、大島渚をはじめ様々な映像作家が、その時代の影響を受けて作品をつくっており、自分で検証をしたかった」というものだった。その映像は、現在の状況からは奇跡とも見える、学生や労働組合にとどまらず、広い国民の支持を得、様々な場で反対運動が生じ、国会議事堂周囲が埋め尽くされた60年のデモの様子を描き出していた。それは、まるで深く胸を打つ幻想のように今では映るが、一月前の沖縄で再現されたものだった。
上映の後、コーディネーターから、何を、如何に、一体何のために記録し、記憶するのかという問題設定がなされ、パネリストの紹介があった。「リンダさんはアートで表現した。保阪正康さんは、当事者の証言をベースに記録する方法をとり、60年安保に対して共感的な態度を示している。小熊英二さんは、膨大な資料を元に記録する方法をとり、1968では批判的な態度を示している。」
保阪正康さんの報告は概ねこうだった。「60年当時、ブントの日帝自立論か、日共の従属論かで分かれており、私は前者の立場に立っていた。当時京都の大学におり、明確なターゲットである国会議事堂のある東京に行くとき胸が高まった。60年安保は、戦犯であった首相岸がいたから盛り上がった。戦後民主主義教育で、世代間を超えた意識、戦争への嫌悪感を教えられた。椎名麟三の人生は社会の矛盾の中で泳ぐことだということを覚えている。昭和という時代には、日本の全てが埋め込まれている。歴史の中に残すために、データを残そうと思った。中国で兵隊は何を考えたか。戦後民主主義の戦後をどう見るか。記録を父にし、記憶を母にし、子供である教訓を取り出す。どういう気持ちで戦ったのか、それ抜きに戦争の記録はない。」
小熊英二さんの報告は概ねこうだった。「戦争を繰り返さない・民主主義を守る。安保闘争のあった60年は戦後15年のことで、戦争は記憶に新しい。沖縄本島では島民の三人に一人が、日本全体では25人に一人が死んでいる。それは身近な誰かが死んだことだ。総力をあげた記憶、隣組の記憶、偉い人の話しだけでなく、皆自分に都合のよい物語を作る。屈辱の記憶は本人からは語られない。だから敗戦を終戦と呼んだ。60年安保の強行採決の一ヶ月は、終戦後のときと同じように、青い空だった。岸を象徴とした安保に対する民主主義の戦いだった。高揚、自由の記憶が一瞬よみがえった。戦争の記憶、沖縄のトゲ、それが安保の現在である。証言は、時を経るに従って脚色される。例えば隣組の権力は語り継がれない。公式の記録には残らない。その時に戻り、資料で検証することが必要になる。」
パネラーの報告後、上野千鶴子さんから「パンドラの箱を開け、鳩山は退場した。日本国民に現実を突きつけて。反安保ではなく、基地の移設に議論が終始してしまった。」
リンダ・ホーグランドさんから「当時一部の共産主義者の反対があったとアメリカでは報道されていたが、日本に抵抗の歴史があった。それを日米双方に知ってほしかった。」
小熊英二さんから「60年安保は高揚の記憶、国民の輝きがあったともいえる時代。安保は日米関係の影。首相退陣まで至った基地問題に関して、アメリカは説明しようとしなかった。対等な関係ではない。」
保阪正康さんから「密約の存在が明らかになった。日本はアメリカの属国。日本は戦争をする資格を持っていなかったと思う。鳩山が倒れる前、2万人が国会に出かけたらどうなっていただろう。樺さんの父親は「娘は警官に殺された」と話している。50周年の今日は、死者を記憶するための日。」
2時間足らず、言葉の放射を受けていた。そんな時間だった。
最後に特別ゲストの加藤登紀子さんが登場した。「私は高校2年のとき、安保で国会デモに行った。その後、ブントの集会で、6月18日に国会突入ができなかったことが革命の敗北だったという話、挫折という言葉を聞いた。しかし歴史は続いている。勝ちも負けもない。その力は、仲間達と今も生きている。」
彼女の、樺さんへ黙祷という呼び掛けが、このシンポジウムの締めくくりだった。
注)時間がなかったせいか、皆さん早口で、メモがまともにとれず、相当私の思い込みの部分がありそうなので、その点についてはお詫びしておきます。
8時半、ほぼ予定通りにシンポは終わり、帰り道、国会議事堂前で降り、南門に寄った。「声なき声の会」が9時から樺美智子さんの50周年の追悼のために献花をするという情報が頭にあったからだ。小雨がちらついていた。昨年も雨だったと早く来ていた人が話していた。9時を少し回り、20人近くが集まってきて、警官が見守る中で南門に献花し、黙祷を捧げた。こじんまりとした静かな集会だった。
コーディネーター上野千鶴子さんの冒頭の挨拶は概ねこうだった。「60年安保闘争は失敗した戦後最大の社会運動だった。奇しくも50年後、普天間問題で首相が交代に追い込まれる事態になり、安保は今日的な課題として位置している。今日シンポジウムを開く意義がそこにある。」
続いて、パネリストの一人、リンダ・ホーグランドさんが監督した映画「ANPO」ダイジェスト版が、上映された。彼女の映像の動機は、「60年のトラウマが日本にある。当時、大島渚をはじめ様々な映像作家が、その時代の影響を受けて作品をつくっており、自分で検証をしたかった」というものだった。その映像は、現在の状況からは奇跡とも見える、学生や労働組合にとどまらず、広い国民の支持を得、様々な場で反対運動が生じ、国会議事堂周囲が埋め尽くされた60年のデモの様子を描き出していた。それは、まるで深く胸を打つ幻想のように今では映るが、一月前の沖縄で再現されたものだった。
上映の後、コーディネーターから、何を、如何に、一体何のために記録し、記憶するのかという問題設定がなされ、パネリストの紹介があった。「リンダさんはアートで表現した。保阪正康さんは、当事者の証言をベースに記録する方法をとり、60年安保に対して共感的な態度を示している。小熊英二さんは、膨大な資料を元に記録する方法をとり、1968では批判的な態度を示している。」
保阪正康さんの報告は概ねこうだった。「60年当時、ブントの日帝自立論か、日共の従属論かで分かれており、私は前者の立場に立っていた。当時京都の大学におり、明確なターゲットである国会議事堂のある東京に行くとき胸が高まった。60年安保は、戦犯であった首相岸がいたから盛り上がった。戦後民主主義教育で、世代間を超えた意識、戦争への嫌悪感を教えられた。椎名麟三の人生は社会の矛盾の中で泳ぐことだということを覚えている。昭和という時代には、日本の全てが埋め込まれている。歴史の中に残すために、データを残そうと思った。中国で兵隊は何を考えたか。戦後民主主義の戦後をどう見るか。記録を父にし、記憶を母にし、子供である教訓を取り出す。どういう気持ちで戦ったのか、それ抜きに戦争の記録はない。」
小熊英二さんの報告は概ねこうだった。「戦争を繰り返さない・民主主義を守る。安保闘争のあった60年は戦後15年のことで、戦争は記憶に新しい。沖縄本島では島民の三人に一人が、日本全体では25人に一人が死んでいる。それは身近な誰かが死んだことだ。総力をあげた記憶、隣組の記憶、偉い人の話しだけでなく、皆自分に都合のよい物語を作る。屈辱の記憶は本人からは語られない。だから敗戦を終戦と呼んだ。60年安保の強行採決の一ヶ月は、終戦後のときと同じように、青い空だった。岸を象徴とした安保に対する民主主義の戦いだった。高揚、自由の記憶が一瞬よみがえった。戦争の記憶、沖縄のトゲ、それが安保の現在である。証言は、時を経るに従って脚色される。例えば隣組の権力は語り継がれない。公式の記録には残らない。その時に戻り、資料で検証することが必要になる。」
パネラーの報告後、上野千鶴子さんから「パンドラの箱を開け、鳩山は退場した。日本国民に現実を突きつけて。反安保ではなく、基地の移設に議論が終始してしまった。」
リンダ・ホーグランドさんから「当時一部の共産主義者の反対があったとアメリカでは報道されていたが、日本に抵抗の歴史があった。それを日米双方に知ってほしかった。」
小熊英二さんから「60年安保は高揚の記憶、国民の輝きがあったともいえる時代。安保は日米関係の影。首相退陣まで至った基地問題に関して、アメリカは説明しようとしなかった。対等な関係ではない。」
保阪正康さんから「密約の存在が明らかになった。日本はアメリカの属国。日本は戦争をする資格を持っていなかったと思う。鳩山が倒れる前、2万人が国会に出かけたらどうなっていただろう。樺さんの父親は「娘は警官に殺された」と話している。50周年の今日は、死者を記憶するための日。」
2時間足らず、言葉の放射を受けていた。そんな時間だった。
最後に特別ゲストの加藤登紀子さんが登場した。「私は高校2年のとき、安保で国会デモに行った。その後、ブントの集会で、6月18日に国会突入ができなかったことが革命の敗北だったという話、挫折という言葉を聞いた。しかし歴史は続いている。勝ちも負けもない。その力は、仲間達と今も生きている。」
彼女の、樺さんへ黙祷という呼び掛けが、このシンポジウムの締めくくりだった。
注)時間がなかったせいか、皆さん早口で、メモがまともにとれず、相当私の思い込みの部分がありそうなので、その点についてはお詫びしておきます。
8時半、ほぼ予定通りにシンポは終わり、帰り道、国会議事堂前で降り、南門に寄った。「声なき声の会」が9時から樺美智子さんの50周年の追悼のために献花をするという情報が頭にあったからだ。小雨がちらついていた。昨年も雨だったと早く来ていた人が話していた。9時を少し回り、20人近くが集まってきて、警官が見守る中で南門に献花し、黙祷を捧げた。こじんまりとした静かな集会だった。
都市の中の都市?その4 [メモ]
ヒルズが提出した都市の中の一つの都市の姿に対して、論ずるべき一つの課題は、人びとが共有するに値する公共財としての都市のあり方になってゆくように思われる。都市のあり方として提案された以上、都市が具備すべき公共が議論される必要がある。それは恐らく、外に対して開かれ、外部環境と協調した空間であるか否か、その都市で生きる人びとが日々の生活において共同し、共有しうる可能性を持っているか否かに通じてゆく。都市は、一方的に与えられる私的な財ではない。
都市において共有されるべきものとして、交通の利便性、ライフライン、公園などの緑地などがすぐ思いつくが、防災性能、都市景観、大気や日照などの環境もすぐれて公共性の高い要素として位置づけられる。医療や文化、商業活動、様々なコミュニティ施設も地区に欠かせないし、人びとの繋がりであるソーシャル・キャピタルも、まちづくりのコアである地域のコミュニティを再構築するため今日的な公共財として浮かび上がる。それらの多くを、六本木ヒルズは備えているかのように見える。
しかし、公共財は誰か特定の者が占有すべき対象ではなく、また誰かによって与えられる存在でもなく、人びとによって共有されるべき財である。おそらく、今日の問題はそこに行き着く。土地は私的所有の対象であっても、都市の公共性のベースになるものであり、それが自由な売買の対象になったことに悲劇があった。そして、今や環境すらも、排出権取引のもとで市場経済の中で扱われるに至っている。
今日では温暖化ガスに焦点が当たっているが、次世代も今日と同様の環境を享受するためにという、地球環境が自然や経済を背景にした人間社会の持続性という切り口で問われたのは、1992年のリオ環境サミットであるが、その大元になった「環境と開発に関する国際連合会議」は1972年に始まっている。
奇しくもユネスコが、保護すべき世界遺産を提唱し「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約」が制定されたのも1972年のことである。
1972年は、沖縄が返還され、田中角栄が首相になり、新全総が議論され、水俣病で患者側が勝訴する前年である。高度経済成長は終わったが、変動相場制に移り、その後二度のオイルショックを受けたが、安定的な高度経済の恩恵を謳歌していった時期である。その後、アメリカの圧力のもとで民活が幅を利かせ、公共財の民営化が進み、内需拡大策のもとで土地投機を中心としたバブルが生じ、土地の高度利用、細分化に対する圧力が高まった。冷戦終結と同時期に起きたバブル崩壊後、長引く経済の低迷のもとで、グローバル化する経済に対応すべく自由化の圧力により、経済特区制度が都市計画に適用された。
この間に都市であったのは、規制緩和に次ぐ規制緩和であり、容積率の緩和は止め処が無く、高層建築を容認する天空率の導入は極め付けであった。そして民間建築検査機関の導入もあり、建築確認は行政の手から離れ、様々な建築偽装を生んだ。都市計画関連制度においても、当初の制御的なまちづくりの思惑と異なり地区計画制度は規制緩和の渦に巻き込まれ、都市計画マスタープラン制度ができたもののグランドデザインの保証がなく、有効に機能しなかった。景観法が制定されて漸く古都等で限定的な対応が施されることになったが、土地の乱雑な開発、高度利用の波をとどめるには至っていない。土地を自由市場にある商品としてみなした開発が相次ぎ、都市は、野放図に拡大し、高度化し、環境アセスは機能せず、都心では超高層が空間を支配するに至った。
この土地を媒介した市場経済の文脈の中で、東京の都心部を拠点として森ビルは次々と建てられ、それぞれの時期の価値にあった賃貸ビルを作り続け、都市再生を追い風に、公共を私に売り渡した規制緩和を謳歌したいヒルズの論理が成立した。空に向かって延び、地下空間を利用した、新たな都市の中の都市の象徴として出現したいくつかのヒルズの存在に対して、都市における、生活における公共の意味が問われているのではなかろうか。
しかし残念ながら、新自由主義の価値観が席捲し、地域コミュニティが解体の危機に瀕しているわが国で、個々人に拠って立つ公共への問い掛けは余りに希薄である。
都市において共有されるべきものとして、交通の利便性、ライフライン、公園などの緑地などがすぐ思いつくが、防災性能、都市景観、大気や日照などの環境もすぐれて公共性の高い要素として位置づけられる。医療や文化、商業活動、様々なコミュニティ施設も地区に欠かせないし、人びとの繋がりであるソーシャル・キャピタルも、まちづくりのコアである地域のコミュニティを再構築するため今日的な公共財として浮かび上がる。それらの多くを、六本木ヒルズは備えているかのように見える。
しかし、公共財は誰か特定の者が占有すべき対象ではなく、また誰かによって与えられる存在でもなく、人びとによって共有されるべき財である。おそらく、今日の問題はそこに行き着く。土地は私的所有の対象であっても、都市の公共性のベースになるものであり、それが自由な売買の対象になったことに悲劇があった。そして、今や環境すらも、排出権取引のもとで市場経済の中で扱われるに至っている。
今日では温暖化ガスに焦点が当たっているが、次世代も今日と同様の環境を享受するためにという、地球環境が自然や経済を背景にした人間社会の持続性という切り口で問われたのは、1992年のリオ環境サミットであるが、その大元になった「環境と開発に関する国際連合会議」は1972年に始まっている。
奇しくもユネスコが、保護すべき世界遺産を提唱し「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約」が制定されたのも1972年のことである。
1972年は、沖縄が返還され、田中角栄が首相になり、新全総が議論され、水俣病で患者側が勝訴する前年である。高度経済成長は終わったが、変動相場制に移り、その後二度のオイルショックを受けたが、安定的な高度経済の恩恵を謳歌していった時期である。その後、アメリカの圧力のもとで民活が幅を利かせ、公共財の民営化が進み、内需拡大策のもとで土地投機を中心としたバブルが生じ、土地の高度利用、細分化に対する圧力が高まった。冷戦終結と同時期に起きたバブル崩壊後、長引く経済の低迷のもとで、グローバル化する経済に対応すべく自由化の圧力により、経済特区制度が都市計画に適用された。
この間に都市であったのは、規制緩和に次ぐ規制緩和であり、容積率の緩和は止め処が無く、高層建築を容認する天空率の導入は極め付けであった。そして民間建築検査機関の導入もあり、建築確認は行政の手から離れ、様々な建築偽装を生んだ。都市計画関連制度においても、当初の制御的なまちづくりの思惑と異なり地区計画制度は規制緩和の渦に巻き込まれ、都市計画マスタープラン制度ができたもののグランドデザインの保証がなく、有効に機能しなかった。景観法が制定されて漸く古都等で限定的な対応が施されることになったが、土地の乱雑な開発、高度利用の波をとどめるには至っていない。土地を自由市場にある商品としてみなした開発が相次ぎ、都市は、野放図に拡大し、高度化し、環境アセスは機能せず、都心では超高層が空間を支配するに至った。
この土地を媒介した市場経済の文脈の中で、東京の都心部を拠点として森ビルは次々と建てられ、それぞれの時期の価値にあった賃貸ビルを作り続け、都市再生を追い風に、公共を私に売り渡した規制緩和を謳歌したいヒルズの論理が成立した。空に向かって延び、地下空間を利用した、新たな都市の中の都市の象徴として出現したいくつかのヒルズの存在に対して、都市における、生活における公共の意味が問われているのではなかろうか。
しかし残念ながら、新自由主義の価値観が席捲し、地域コミュニティが解体の危機に瀕しているわが国で、個々人に拠って立つ公共への問い掛けは余りに希薄である。
都市の中の都市?その3 [メモ]
「ヒルズ 挑戦する都市」は、様々なことを考えさせられた。それは、今日の文化や価値観に対する私の違和感なのだろうか。
一人のプロデューサーが抱いた徹底した未来志向の計画のもとで、同潤会アパートの跡地に新たな商業都市を創り出した表参道ヒルズと、地建者との計画上の合意形成を積み重ね、都市の中の街を作り直した丸亀町商店街は、両極に位置するように見える。お互いに都市のシンボルであるが、シンボルの意味が違い、そのために表現される形が違ってくる。その差は何だろうか。人の生活の延長にある街かどうか、権利者の選択に委ねられる街かどうかが決定的な差であるように感じる。しかし東京では、日常生活から切り離された異空間に、日常の空虚さを埋めようとする若者たちが集まる。ディズニーランドは未だに客を集め、ヒルズには日常とは別の何かを求めて人々が集まる。
ヒルズの挑戦は、世界をターゲットにした東京で実現したものであり、その土地固有の履歴を辿れる生活に根付いた景観を特徴とする鞆の浦や真鶴などと対比することを、森稔はターゲットにする場が違うと一蹴するだろう。ヒルズは未来都市であり、世界遺産を目指しているわけではないと。その目線が、東京の中に、差別化された世界都市を創り出すことの意味に繋がってゆく。そこは、非日常の空間であり、世界に通用し、未来に通じる空間の価値を護るために場を占有することが許される。東京に活力を与えるために、新しい文化都市を創り出したではないか、東京の中にコンパクトシティのモデルを提示したではないか、その何が問題なのだと。
このような問題設定をしても堂々巡りに終わりそうである。見るものがはじめから異なっており、価値観がすれ違っていくことだけが見えてくる。それは東京の都心を対象にして、世界に向けてメッセージを送ろうという立場と、都市を、公共財として、住まう人びとの手に戻そうとする立場の差である。そのため都市の魅力度を高めるために、一方では過去の履歴を断ち切り、周囲と隔絶した差別化を追求することが必然的な方法となり、もう一方では過去の履歴を大切に守り、その上で周囲との緩やかな調和が求められることになる。
前者であるヒルズの創造者は、難点は折角のポテンシャルを持ちながら、時代に合わせて更新することを疎かにし、ただ闇雲に宅地を外に向けて広げ、相応の魅力を高めてこなかった東京という都市にある。都市の中に現代の価値にマッチした都市を計画的に創ることで、世界都市東京で求められている商業空間にとどまらず、防災上も安全な場を、地域の憩いの場、ハレの空間、さらには公園・緑地、農空間すらも提供しているというだろう。都市を公共財とみなすのであれば、外環などの道路網を整備して都心部から通過交通を排除し。既存の都市内の高速道路を地下化し、都会に必要な水面、運河を回復することなどの工夫が先決であり、それは公共事業の役割なのだと。
それに対して後者には大きな難点がある。都市の履歴は本当に守られてきたのだろうかという疑問である。緩やかな調和を保つための近隣の関係を育ててきたかという疑問も加わるし、防災の面でも脆弱そのものである。東京に限っても、下町や田園調布など一部の計画的に作られた住宅地を除いて、過去の風景と出会える場所はほとんどなくなっている。先日品川宿を歩いたが、一部の路地裏や寺社の配置は別として、私は嘗ての風景を見出すことができなかった。現在、東京への回帰と相まって、高層化の圧力に伴うマンション問題を始め、土地の細分化、建て詰まりによる近隣間の齟齬が至るところで起きている。東京近郊に限らず、23区内であっても、周辺区の低層住宅地の多くはこの50~60年程度の間に形成されたところであり、100年も遡れる土地は少ない。耕地整理などで整った基盤がつくられた地域であっても、相続などのたびに土地は細かくなり、住宅は更新され続け、新旧が相容れない街並みを作り出している。
一人のプロデューサーが抱いた徹底した未来志向の計画のもとで、同潤会アパートの跡地に新たな商業都市を創り出した表参道ヒルズと、地建者との計画上の合意形成を積み重ね、都市の中の街を作り直した丸亀町商店街は、両極に位置するように見える。お互いに都市のシンボルであるが、シンボルの意味が違い、そのために表現される形が違ってくる。その差は何だろうか。人の生活の延長にある街かどうか、権利者の選択に委ねられる街かどうかが決定的な差であるように感じる。しかし東京では、日常生活から切り離された異空間に、日常の空虚さを埋めようとする若者たちが集まる。ディズニーランドは未だに客を集め、ヒルズには日常とは別の何かを求めて人々が集まる。
ヒルズの挑戦は、世界をターゲットにした東京で実現したものであり、その土地固有の履歴を辿れる生活に根付いた景観を特徴とする鞆の浦や真鶴などと対比することを、森稔はターゲットにする場が違うと一蹴するだろう。ヒルズは未来都市であり、世界遺産を目指しているわけではないと。その目線が、東京の中に、差別化された世界都市を創り出すことの意味に繋がってゆく。そこは、非日常の空間であり、世界に通用し、未来に通じる空間の価値を護るために場を占有することが許される。東京に活力を与えるために、新しい文化都市を創り出したではないか、東京の中にコンパクトシティのモデルを提示したではないか、その何が問題なのだと。
このような問題設定をしても堂々巡りに終わりそうである。見るものがはじめから異なっており、価値観がすれ違っていくことだけが見えてくる。それは東京の都心を対象にして、世界に向けてメッセージを送ろうという立場と、都市を、公共財として、住まう人びとの手に戻そうとする立場の差である。そのため都市の魅力度を高めるために、一方では過去の履歴を断ち切り、周囲と隔絶した差別化を追求することが必然的な方法となり、もう一方では過去の履歴を大切に守り、その上で周囲との緩やかな調和が求められることになる。
前者であるヒルズの創造者は、難点は折角のポテンシャルを持ちながら、時代に合わせて更新することを疎かにし、ただ闇雲に宅地を外に向けて広げ、相応の魅力を高めてこなかった東京という都市にある。都市の中に現代の価値にマッチした都市を計画的に創ることで、世界都市東京で求められている商業空間にとどまらず、防災上も安全な場を、地域の憩いの場、ハレの空間、さらには公園・緑地、農空間すらも提供しているというだろう。都市を公共財とみなすのであれば、外環などの道路網を整備して都心部から通過交通を排除し。既存の都市内の高速道路を地下化し、都会に必要な水面、運河を回復することなどの工夫が先決であり、それは公共事業の役割なのだと。
それに対して後者には大きな難点がある。都市の履歴は本当に守られてきたのだろうかという疑問である。緩やかな調和を保つための近隣の関係を育ててきたかという疑問も加わるし、防災の面でも脆弱そのものである。東京に限っても、下町や田園調布など一部の計画的に作られた住宅地を除いて、過去の風景と出会える場所はほとんどなくなっている。先日品川宿を歩いたが、一部の路地裏や寺社の配置は別として、私は嘗ての風景を見出すことができなかった。現在、東京への回帰と相まって、高層化の圧力に伴うマンション問題を始め、土地の細分化、建て詰まりによる近隣間の齟齬が至るところで起きている。東京近郊に限らず、23区内であっても、周辺区の低層住宅地の多くはこの50~60年程度の間に形成されたところであり、100年も遡れる土地は少ない。耕地整理などで整った基盤がつくられた地域であっても、相続などのたびに土地は細かくなり、住宅は更新され続け、新旧が相容れない街並みを作り出している。
都市の中の都市?その2 [メモ]
グローバリゼーションを避けられない今日の世界的な成功者である、垂直庭園都市六本木ヒルズを創り出した森稔の論理を否定するのは、難しい。彼にとって土地は有効に使えば限りない豊かさを生み出す商品であり、都市の履歴に対する思いよりも未来に興味を持ち、人びとが作り出すコモンの空間に対する慈しみよりも、全てを掌にコントロールする新しい創造こそが是であるという確信に満ちあふれている。市場原理が席捲した時代の勝者であるヒルズのずば抜けた存在そのものが、現代の格差社会において勝ち組が得たものを象徴的に表現しているように見える。
しかもヒルズは、いじましい、周辺に日照被害をもたらすような高層マンションではなく、住棟に住む人々のプライバシーにも気を使っているという。人を追い出す再開発ではないと、地権者との合意形成を熱く語っている。開発のたびに失われてきた緑を創出する工夫をしているし、それは、低層住宅地の中に忽然と姿を現し、周辺に災いをもたらす高層マンションとは別次元の、東京において花開いた、突出した、投資都市ドバイ、上海などの世界の価値に通じる存在である。
高級志向には、一般とは違った別の市場がある。ターゲットが違うから、東京で進行中の床の過剰状況に影響を受けることは少ない。リーマンショックの少し前、格差社会が問題視されたとき、アメリカ型の市場原理を推し進めた竹中グループが儲けることが何故悪い、貧困は問題だが格差は経済の推進力ではないか、結果は自己責任だと居直ったように、全ての反論が価値観の相違として勝者によって片付けられそうである。市場原理主義は、世界恐慌を招き、彼らの主張は弱まったが、当時つくられた制度は生き残っており、富める者はそれほどの打撃を受けなかった。
そうであっても、私は、周辺を圧倒して止まない六本木ヒルズ全景に異様さを感じる。周辺を睥睨するヒルズは人の手から離れた現代の富の集積の姿であり、200mを超す威容を都市のシンボルとして押し付けるヒルズが提供する様々な現代の夢を私は共有することができない。そのシンボル性を追い求め、差別化することによって価値をより増大するために、周辺と隔絶した姿は、本来都市が提供すべき公共性において広がりをもたず、解体された個々人が決して自分たちの手にすることができない現代の虚構のように映るのだ。
その綿密な計画のもとに創出され、管理された一つずつの場で、人びとは時間を過ごし、ハレの日にはそれにふさわしい舞台が提供され、繋がりは生じるが、それは自分たちの場を失った人たちの集まりのように感じる。
大地震が襲ったとき、多くの高層ビルは傾き、周囲の街は崩壊しても、ヒルズは一人生き残るのだろう。災害は弱者を襲うし、差別とはそういうものだからだ。そう、ヒルズは現代社会の価値観を象徴する姿なのだ。
これまでの都市の履歴を無くし、新たな履歴の第一歩を創り出す。その発想は、高層ビルこそが経済的に合理であり、土地の有効利用に繋がるとした思考の延長にあり、市場原理主義のもとで都市再生特区制度を生んだ。今までの高層ビルの集合とは異なり、彼が作り出した垂直庭園都市を、都市の中の都市と言ってしまうところに、富める者がより豊かさを享受してよいという差別化の論理、市場原理主義に通じる勝ち組の驕りを見る。
そこは再開発の地であり、人びとが自由に利用する空間が提供されていながらも、周囲とは切り離された都市空間であり、お互いが信頼しあいながら、空間を共有してゆくことで成立するコモンの思想とは遠い。
しかもヒルズは、いじましい、周辺に日照被害をもたらすような高層マンションではなく、住棟に住む人々のプライバシーにも気を使っているという。人を追い出す再開発ではないと、地権者との合意形成を熱く語っている。開発のたびに失われてきた緑を創出する工夫をしているし、それは、低層住宅地の中に忽然と姿を現し、周辺に災いをもたらす高層マンションとは別次元の、東京において花開いた、突出した、投資都市ドバイ、上海などの世界の価値に通じる存在である。
高級志向には、一般とは違った別の市場がある。ターゲットが違うから、東京で進行中の床の過剰状況に影響を受けることは少ない。リーマンショックの少し前、格差社会が問題視されたとき、アメリカ型の市場原理を推し進めた竹中グループが儲けることが何故悪い、貧困は問題だが格差は経済の推進力ではないか、結果は自己責任だと居直ったように、全ての反論が価値観の相違として勝者によって片付けられそうである。市場原理主義は、世界恐慌を招き、彼らの主張は弱まったが、当時つくられた制度は生き残っており、富める者はそれほどの打撃を受けなかった。
そうであっても、私は、周辺を圧倒して止まない六本木ヒルズ全景に異様さを感じる。周辺を睥睨するヒルズは人の手から離れた現代の富の集積の姿であり、200mを超す威容を都市のシンボルとして押し付けるヒルズが提供する様々な現代の夢を私は共有することができない。そのシンボル性を追い求め、差別化することによって価値をより増大するために、周辺と隔絶した姿は、本来都市が提供すべき公共性において広がりをもたず、解体された個々人が決して自分たちの手にすることができない現代の虚構のように映るのだ。
その綿密な計画のもとに創出され、管理された一つずつの場で、人びとは時間を過ごし、ハレの日にはそれにふさわしい舞台が提供され、繋がりは生じるが、それは自分たちの場を失った人たちの集まりのように感じる。
大地震が襲ったとき、多くの高層ビルは傾き、周囲の街は崩壊しても、ヒルズは一人生き残るのだろう。災害は弱者を襲うし、差別とはそういうものだからだ。そう、ヒルズは現代社会の価値観を象徴する姿なのだ。
これまでの都市の履歴を無くし、新たな履歴の第一歩を創り出す。その発想は、高層ビルこそが経済的に合理であり、土地の有効利用に繋がるとした思考の延長にあり、市場原理主義のもとで都市再生特区制度を生んだ。今までの高層ビルの集合とは異なり、彼が作り出した垂直庭園都市を、都市の中の都市と言ってしまうところに、富める者がより豊かさを享受してよいという差別化の論理、市場原理主義に通じる勝ち組の驕りを見る。
そこは再開発の地であり、人びとが自由に利用する空間が提供されていながらも、周囲とは切り離された都市空間であり、お互いが信頼しあいながら、空間を共有してゆくことで成立するコモンの思想とは遠い。
都市の中の都市?その1 [メモ]
「ヒルズ 挑戦する都市」(森稔/朝日新書)を読む。そこでは、都市の中で彼がプロデューサーとして作り出した一つの都市であり、一定のコンセプトで壮大な垂直型の庭園都市づくりが自負をもって語られている。
礫層の上に建つ高度な耐震構造による安全性、屋上も含めて公園・庭園によって緑空間を創出し、エネルギーをコントロールすることによって得られる環境、美術館、コンサートホール、図書館、映画館、映画の祭典など観光都市東京の拠点となる文化、迷路の如き立体的に連なる人工地盤上の路地とたまりの工夫、それぞれの場に現れる様々な店、休憩をとる場、ハレの日に祭りの空間に変化する広場、立体都市における地下空間の活用の可能性、そのエリアで完結する職住接近の歩いて暮らせるコンパクトシティ…。
その中で、人々はアークヒルズや六本木ヒルズの敷地の外に出ることなく、現代の都市生活の豊かさを享受できる。広大な土地の上につくられた輻輳した空間は独立した立体都市であり、閉ざされた管理が行き届いた計画的な空間の中であるからこそ、住民も勤労者も来客も満足する。それは、都市の中に現れた驚きの地、ワンダーランド都市である。
容積率の緩和、再開発に伴う助成、さらには特区制度、立体道路制度を活用し、大都市の一部を差別化し、そこで完結する現代人の欲望を満たすに足る魅力度を充填させる。
より大きな投資をして、グローバルな視野の上で価値を作り出し、国内のヒルズ族だけでなく、海外からの顧客を呼び寄せ、より大きな還元を得る。新たに装いを変えたその土地は、最高級の商品に変わる。
その垂直庭園都市の手法は、彼が指摘しているように、世界都市である東京の都心部で、新たな都市空間を作り出すことで成立する。52階の展望台は、四方全てを眺めることができる位置にあり、逆側から見ればどこに対してもその存在を主張する。言い換えれば、ル・コルビジェに心酔している森稔が作り出したヒルズは、都市の中の輝く現代都市であり、光のシンボルである。現代人に多くの享楽を与える仕掛けを提供したプロデューサーは、恰も新しい都市創造の神の如くである。
そのためだろう。彼の書には、再開発前の懐かしさを覚える古い街並みは、みすぼらしく、活力を欠いた廃棄すべき街として描かれており、またヒルズの周囲の人々、外に広がる街、そこで営まれている日常の生活が描かれていない。むしろ外側に住む人々は、メリットを享受できる再開発をせずに、旧来の土地にしがみついている、時代遅れの価値観を持つ人びととして描かれる。それはヒルズを光とすれば、影に住む人たちである。
例えば愛宕山のそばを通ったとき、寺を囲む不自然な高層ビルの空間に違和感を覚える人は、彼の視野に入ってこない。数キロ先からも見えるシンボルとなる遠景、地域を圧倒的に支配する中景、中に入った人たちのみが楽しむ近景、それは恰もヒルズを中心に世界があるかの如き視点に立っている。
礫層の上に建つ高度な耐震構造による安全性、屋上も含めて公園・庭園によって緑空間を創出し、エネルギーをコントロールすることによって得られる環境、美術館、コンサートホール、図書館、映画館、映画の祭典など観光都市東京の拠点となる文化、迷路の如き立体的に連なる人工地盤上の路地とたまりの工夫、それぞれの場に現れる様々な店、休憩をとる場、ハレの日に祭りの空間に変化する広場、立体都市における地下空間の活用の可能性、そのエリアで完結する職住接近の歩いて暮らせるコンパクトシティ…。
その中で、人々はアークヒルズや六本木ヒルズの敷地の外に出ることなく、現代の都市生活の豊かさを享受できる。広大な土地の上につくられた輻輳した空間は独立した立体都市であり、閉ざされた管理が行き届いた計画的な空間の中であるからこそ、住民も勤労者も来客も満足する。それは、都市の中に現れた驚きの地、ワンダーランド都市である。
容積率の緩和、再開発に伴う助成、さらには特区制度、立体道路制度を活用し、大都市の一部を差別化し、そこで完結する現代人の欲望を満たすに足る魅力度を充填させる。
より大きな投資をして、グローバルな視野の上で価値を作り出し、国内のヒルズ族だけでなく、海外からの顧客を呼び寄せ、より大きな還元を得る。新たに装いを変えたその土地は、最高級の商品に変わる。
その垂直庭園都市の手法は、彼が指摘しているように、世界都市である東京の都心部で、新たな都市空間を作り出すことで成立する。52階の展望台は、四方全てを眺めることができる位置にあり、逆側から見ればどこに対してもその存在を主張する。言い換えれば、ル・コルビジェに心酔している森稔が作り出したヒルズは、都市の中の輝く現代都市であり、光のシンボルである。現代人に多くの享楽を与える仕掛けを提供したプロデューサーは、恰も新しい都市創造の神の如くである。
そのためだろう。彼の書には、再開発前の懐かしさを覚える古い街並みは、みすぼらしく、活力を欠いた廃棄すべき街として描かれており、またヒルズの周囲の人々、外に広がる街、そこで営まれている日常の生活が描かれていない。むしろ外側に住む人々は、メリットを享受できる再開発をせずに、旧来の土地にしがみついている、時代遅れの価値観を持つ人びととして描かれる。それはヒルズを光とすれば、影に住む人たちである。
例えば愛宕山のそばを通ったとき、寺を囲む不自然な高層ビルの空間に違和感を覚える人は、彼の視野に入ってこない。数キロ先からも見えるシンボルとなる遠景、地域を圧倒的に支配する中景、中に入った人たちのみが楽しむ近景、それは恰もヒルズを中心に世界があるかの如き視点に立っている。
1968を読む [メモ]
1968を読む その3
分厚い書の最後の行に書かれていたのは、これまで答が見出せないでいる次のような小熊英二自身の決意表明だった。その少女の言葉は、上巻の最初の行にも書かれており、彼があの時代を語るに当たって、あの時代を生きた私たちに向かって提起した問題意識でもあった。
…「私には何もないの。それでは戦ってはいけないのでしょうか?」この言葉が一人の少女から発された40年以上前の地点から、私達は再度出直すことを求められているのである。P866
この抜書きによるメモは、自戒の場面に関してのものだった。同時代の誰かによる書であれば、反発しただろうが、このように、今日に繋がるあの時代が見えるのだという次世代による提示は、20世紀が終わり、失われた15年を経、時代が変わっていることを注視していると思っているはずなのに、個の自立にこだわり続ける70年のパラダイムからの発想に慣れきっている私の今に丁度合っていたのかも知れない。
この40年間、あの時代に吐いた言葉や見た風景によって、何らかの形で縛られてきたのは、同時代の人たちに共通するだろう。それは、例えば、提出しもしない卒論に単位を与えられ、社会に出た私に、還暦になって、学生の卒論や修論の面倒を見てやっと卒業したことを実感するまでの長い時間がかかった。また、あの時代の余波を受けた連中がそばにおり、彼らと共有する場を確保することが、30歳の時の私の起業の一因となった。その後、10人に満たない小さな事務所で30年余、都市公害と認識していた環7や環8など幹線道路の沿道環境問題、都市計画マスタープラン、地区計画や密集市街地、地域のまちづくりに携わった。阪神大震災は転機の一つで、都市の領域で言葉を探した。そして近年、コンサルタントに限界を覚え、定款に従いリタイアすることにし、最後の役割として、あの時代の連中が出資してくれた株を処理することにした。これで、個人的にあの時代からも別れを告げることができる。当事者ではなく、第三者的な立場で、時代に翻弄された人たちにエールを送り続けたと思うが、もう恐らく、戦うことはないだろう。
大きく時代が変化した失われた15年の間に、我が世代と次世代との大きな価値観の差を生んだことは確かである。それは、90年のバブル崩壊後の不況下にあって、自分達の子どもの世代との職を巡っての競争が生じ、社会の矛盾に直接向き合わざるを得なかった就職氷河期に直面した若人達とのギャップの結果だった。不安な時代、あの時代を生きた大量な団塊世代前後の中高年が職を守り、学生の職を狭め、貧困層を生み出した。1970年のパラダイムの一つ、個の尊重、個の自立に強迫観念を持った層は、先が見えない経済の下降局面の時代に当然生じる若人達のモラトリアム的な姿勢を見て苛立ち、社会の強者に転じて、新自由主義の言語である自己責任という言葉を彼らに投げつけたのかもしれない。格差社会を生んだ経済の限界下での贅沢な大衆消費社会の進展は、世代間だけでなく、職を巡って若人達の間を裂いた。大人達が作り出した社会に対して、同じ価値観を持つことを拒み、覚めた目を持つように見える彼らは、本当は、中高年以上に孤立ではなく、連帯を求めているのかも知れない。叛乱が生じたあの時代と、立場が逆になっていることを思い知らされる。何が出来るのだろう。
戦後の民主主義教育が、今回の政権交代に導く大きな鍵だと、総選挙の前に会った畏友が話していた。彼は、政権を考えない社会党では日本を変えられない、政権を目指すための政治をすると宣言した菅直人を評価していた。あの時代と今の時代が、どこかで繋がったのかもしれない。
分厚い書の最後の行に書かれていたのは、これまで答が見出せないでいる次のような小熊英二自身の決意表明だった。その少女の言葉は、上巻の最初の行にも書かれており、彼があの時代を語るに当たって、あの時代を生きた私たちに向かって提起した問題意識でもあった。
…「私には何もないの。それでは戦ってはいけないのでしょうか?」この言葉が一人の少女から発された40年以上前の地点から、私達は再度出直すことを求められているのである。P866
この抜書きによるメモは、自戒の場面に関してのものだった。同時代の誰かによる書であれば、反発しただろうが、このように、今日に繋がるあの時代が見えるのだという次世代による提示は、20世紀が終わり、失われた15年を経、時代が変わっていることを注視していると思っているはずなのに、個の自立にこだわり続ける70年のパラダイムからの発想に慣れきっている私の今に丁度合っていたのかも知れない。
この40年間、あの時代に吐いた言葉や見た風景によって、何らかの形で縛られてきたのは、同時代の人たちに共通するだろう。それは、例えば、提出しもしない卒論に単位を与えられ、社会に出た私に、還暦になって、学生の卒論や修論の面倒を見てやっと卒業したことを実感するまでの長い時間がかかった。また、あの時代の余波を受けた連中がそばにおり、彼らと共有する場を確保することが、30歳の時の私の起業の一因となった。その後、10人に満たない小さな事務所で30年余、都市公害と認識していた環7や環8など幹線道路の沿道環境問題、都市計画マスタープラン、地区計画や密集市街地、地域のまちづくりに携わった。阪神大震災は転機の一つで、都市の領域で言葉を探した。そして近年、コンサルタントに限界を覚え、定款に従いリタイアすることにし、最後の役割として、あの時代の連中が出資してくれた株を処理することにした。これで、個人的にあの時代からも別れを告げることができる。当事者ではなく、第三者的な立場で、時代に翻弄された人たちにエールを送り続けたと思うが、もう恐らく、戦うことはないだろう。
大きく時代が変化した失われた15年の間に、我が世代と次世代との大きな価値観の差を生んだことは確かである。それは、90年のバブル崩壊後の不況下にあって、自分達の子どもの世代との職を巡っての競争が生じ、社会の矛盾に直接向き合わざるを得なかった就職氷河期に直面した若人達とのギャップの結果だった。不安な時代、あの時代を生きた大量な団塊世代前後の中高年が職を守り、学生の職を狭め、貧困層を生み出した。1970年のパラダイムの一つ、個の尊重、個の自立に強迫観念を持った層は、先が見えない経済の下降局面の時代に当然生じる若人達のモラトリアム的な姿勢を見て苛立ち、社会の強者に転じて、新自由主義の言語である自己責任という言葉を彼らに投げつけたのかもしれない。格差社会を生んだ経済の限界下での贅沢な大衆消費社会の進展は、世代間だけでなく、職を巡って若人達の間を裂いた。大人達が作り出した社会に対して、同じ価値観を持つことを拒み、覚めた目を持つように見える彼らは、本当は、中高年以上に孤立ではなく、連帯を求めているのかも知れない。叛乱が生じたあの時代と、立場が逆になっていることを思い知らされる。何が出来るのだろう。
戦後の民主主義教育が、今回の政権交代に導く大きな鍵だと、総選挙の前に会った畏友が話していた。彼は、政権を考えない社会党では日本を変えられない、政権を目指すための政治をすると宣言した菅直人を評価していた。あの時代と今の時代が、どこかで繋がったのかもしれない。
1968を読む その2 [メモ]
小熊英二は、あの時代の叛乱をこのように読み解く。
…「心」の問題を、「政治運動」という形態で表現したのが、「あの時代」の叛乱の一側面であった。いわば全共闘運動は、高度成長に対する集団的摩擦現象でもあったが、日本史上初めて「現代的不幸」に集団的に直面したベビーブーム世代が繰り広げた大規模な〈自分探し〉運動であった、ともいえるだろう。p794
…高度成長の歪みから発生した若者たちの叛乱は、潜在的には社会全体の歪みを撃つ可能性をもっていた。しかし、ノンセクトたちはそれを具体的な言葉や行動に表現する手段をもてなかったし、セクトは彼らのエネルギーを、古色蒼然としたマルクス主義革命論に押し込めて利用しただけだった。P798
…東大闘争は、「あの時代」の叛乱の転換点だった。内ゲバを公然化したこと、時計台に立てこもり最期を迎える玉砕主義(当事者達はこの形容を否定するだろうが)などもそうだったが、それ以前の大学闘争が要求実現のための闘争だったのにたいし、闘争の性格が、自己の戦う意志や異議申し立ての表現に変化したためである。P800
…この世代は、戦後教育によって内面化した「一人の百歩よりみんなの一歩」という倫理から脱却するため、彼らはまず、全共闘運動のリゴリズムによる「戦後民主主義」批判で、戦後教育の理念を排除した。そして連合赤軍事件に彼らなりの解釈を施すことによって、全共闘運動のリゴリズムから脱却した。こうした二段階転向によって、彼らは高度成長と大量消費社内に順応しえたのである。P838
…「あの時代」の叛乱は、日本が発展途上国から先進国に、「近代」から「現代に脱皮する過程において必要とした通過儀礼であり、高度資本主義社会への適応過程であった。P839
そして今日の格差社会の下での現代の貧困を生んだ時代、あの時代と類似した、社会と若人達との断絶が起きているのではないかと投げ掛ける。
…経済成長期の安定した社会への反発と批判を「自由」「個の尊重」という言葉を使って唱えた「1970年パラダイム」が、「自由」が「新自由主義」の言葉となった経済停滞期の若者には説得力のないものと映るようになった。P848
彼の現在の地平に立った指摘は、40年経っても総括できていないまま、次の時代に移行してしまったあの時代である。今般の民主党への政権交代は、この時代背景の変化という文脈の上で理解できるだろうか。
…日本が発展途上国だった時代に形成された戦後思想は、「もはや戦後ではない」という言葉とともに高度成長が始まった1950年代後半から、約10年を経た1968年ごろから嘲笑と批判にさらされ、パラダイムの転換が起きた。そして「1970年パラダイム」は、日本が経済成長の余地のある中心的先進国だった時代に栄えた。P845
…そして92年に経済成長が止まり、94年に脱工業化した先進国に日本が変貌した時点から、約10年を経た2000年前後から「1970年パラダイム」は嘲笑と批判の対象とされた。支配的言説としては歴史修正主義と新自由主義が台頭する一方、それに対抗する側は新たなパラダイムを生み出せていない。P845
…「心」の問題を、「政治運動」という形態で表現したのが、「あの時代」の叛乱の一側面であった。いわば全共闘運動は、高度成長に対する集団的摩擦現象でもあったが、日本史上初めて「現代的不幸」に集団的に直面したベビーブーム世代が繰り広げた大規模な〈自分探し〉運動であった、ともいえるだろう。p794
…高度成長の歪みから発生した若者たちの叛乱は、潜在的には社会全体の歪みを撃つ可能性をもっていた。しかし、ノンセクトたちはそれを具体的な言葉や行動に表現する手段をもてなかったし、セクトは彼らのエネルギーを、古色蒼然としたマルクス主義革命論に押し込めて利用しただけだった。P798
…東大闘争は、「あの時代」の叛乱の転換点だった。内ゲバを公然化したこと、時計台に立てこもり最期を迎える玉砕主義(当事者達はこの形容を否定するだろうが)などもそうだったが、それ以前の大学闘争が要求実現のための闘争だったのにたいし、闘争の性格が、自己の戦う意志や異議申し立ての表現に変化したためである。P800
…この世代は、戦後教育によって内面化した「一人の百歩よりみんなの一歩」という倫理から脱却するため、彼らはまず、全共闘運動のリゴリズムによる「戦後民主主義」批判で、戦後教育の理念を排除した。そして連合赤軍事件に彼らなりの解釈を施すことによって、全共闘運動のリゴリズムから脱却した。こうした二段階転向によって、彼らは高度成長と大量消費社内に順応しえたのである。P838
…「あの時代」の叛乱は、日本が発展途上国から先進国に、「近代」から「現代に脱皮する過程において必要とした通過儀礼であり、高度資本主義社会への適応過程であった。P839
そして今日の格差社会の下での現代の貧困を生んだ時代、あの時代と類似した、社会と若人達との断絶が起きているのではないかと投げ掛ける。
…経済成長期の安定した社会への反発と批判を「自由」「個の尊重」という言葉を使って唱えた「1970年パラダイム」が、「自由」が「新自由主義」の言葉となった経済停滞期の若者には説得力のないものと映るようになった。P848
彼の現在の地平に立った指摘は、40年経っても総括できていないまま、次の時代に移行してしまったあの時代である。今般の民主党への政権交代は、この時代背景の変化という文脈の上で理解できるだろうか。
…日本が発展途上国だった時代に形成された戦後思想は、「もはや戦後ではない」という言葉とともに高度成長が始まった1950年代後半から、約10年を経た1968年ごろから嘲笑と批判にさらされ、パラダイムの転換が起きた。そして「1970年パラダイム」は、日本が経済成長の余地のある中心的先進国だった時代に栄えた。P845
…そして92年に経済成長が止まり、94年に脱工業化した先進国に日本が変貌した時点から、約10年を経た2000年前後から「1970年パラダイム」は嘲笑と批判の対象とされた。支配的言説としては歴史修正主義と新自由主義が台頭する一方、それに対抗する側は新たなパラダイムを生み出せていない。P845
1968を読む その1 [メモ]
市場原理がグローバリゼーションの時代に適っているとした新自由主義が、規制緩和のもとでかすかに残っていた公共の規範を蔑ろにし、自己責任という言葉を借りて差別を当然視する格差社会を正当化した。
リーマンショックから1年、世界経済の大収縮の下で、その元凶だった新自由主義の主張は影を潜め、政治主導による金融の立て直しの途上、経済も底打ちの気配を漂わせているが、中小・零細企業は明日を知らない地点に追い込まれている。失業者は増え、雇用なき経済回復の過程でも置き去りにされた格差社会の傷は深まる一方である。
この先の見えない時代転換期、貧富の格差を拡大させ、世界に災いをもたらした金融市場の優先を見直し、生活の綻びを正そうとした、アメリカでのオバマ大統領の出現、日本での初の政権交代は必然だったように今では思う。
そして、あの時代から40年、バブル崩壊から20年、私は退役を間近にし、高齢者の入口に立っている。
小熊英二が提示した1968、あの時代。時に、目がさまよい、溜息をつき、何度も読むことを止めた。あの時代のこと、断片的な記憶は、自分の中にとどまっていたまさに個人的な風景との重なりで蘇る。
40年ほど前に、連続して次々に現れた若人による異議申し立ての、一つ一つの場面と、その時々に発せられ、後年に省みられた言葉を連ねていくと、突如発せられた学生からの要求、全共闘の登場、次いで生じる大学のバリケード、既成左翼の否定、戦後民主主義への懐疑、同時に生じたベトナム戦争と重なった羽田・佐世保・王子・新宿などでのデモ、三里塚、市民運動としてのベ平連の特異な展開、様々な叛乱に対する機動隊による制圧から、セクトの内ゲバを経て、連合赤軍に至り、さらにウーマンリブで収束する一つの時代が塊の像となって迫ってくる。
それは、同時期にアメリカやフランスで生じた政治自体を巻き込んだ学生叛乱の動きとは異なる、著者が指摘する日本の現代社会に移行する転換期の時代だったのだろうと、合点する。
そのような歴史のまとめ方は、自己否定という言葉が個人の長いその後の時間を引きずったこととの乖離を埋めることにやや躊躇するが、戦後民主主義の画期として、60年ではなく、近代から現代への転機に否応なく直面した68年としたことに頷く点は多い。
その底流が、時代から切り捨てられた若人達の心の問題として00年前後の新自由主義のもとで再度現れ、この間何とか食えてきた年老いた私に現代の貧困に対する後ろめたさを感じさせた。また、この書の展開とは離れ、政治の場面で09年に政権交代となって表に出たというような歴史認識も可能かも知れない。
私の時代とやや交錯したあの時代、社会学者小熊英二の1968を貫いていたのは、このような思いっきり視点を引いた、歴史的な問題意識の元での醒めた視点だった。(いずれも新曜社「1968下」の結論より抜粋)
…(「あの時代」の叛乱の要因を、)①大学生の大衆化、②高度成長による社会変動、③戦後の民主教育のほかに、第四の要因を挙げるならば、当時の若者のアイデンティティ・クライシスと「現代的不幸」からの脱却願望がある。P786
…彼らはいわば、親世代が直面した貧困・飢餓・戦争などの分かりやすい「近代的不幸」とは異なる、言語化しにくい(そして最後まで彼らが言語化できなかった)「現代的不幸」に集団的に直面した初めての世代であった。P787
…自己の存在確認が全共闘運動の一つの要因であったなら、そこに疑問がわく。なぜ政治(的)運動という形態で、それが行われなければならなかったか。P789
リーマンショックから1年、世界経済の大収縮の下で、その元凶だった新自由主義の主張は影を潜め、政治主導による金融の立て直しの途上、経済も底打ちの気配を漂わせているが、中小・零細企業は明日を知らない地点に追い込まれている。失業者は増え、雇用なき経済回復の過程でも置き去りにされた格差社会の傷は深まる一方である。
この先の見えない時代転換期、貧富の格差を拡大させ、世界に災いをもたらした金融市場の優先を見直し、生活の綻びを正そうとした、アメリカでのオバマ大統領の出現、日本での初の政権交代は必然だったように今では思う。
そして、あの時代から40年、バブル崩壊から20年、私は退役を間近にし、高齢者の入口に立っている。
小熊英二が提示した1968、あの時代。時に、目がさまよい、溜息をつき、何度も読むことを止めた。あの時代のこと、断片的な記憶は、自分の中にとどまっていたまさに個人的な風景との重なりで蘇る。
40年ほど前に、連続して次々に現れた若人による異議申し立ての、一つ一つの場面と、その時々に発せられ、後年に省みられた言葉を連ねていくと、突如発せられた学生からの要求、全共闘の登場、次いで生じる大学のバリケード、既成左翼の否定、戦後民主主義への懐疑、同時に生じたベトナム戦争と重なった羽田・佐世保・王子・新宿などでのデモ、三里塚、市民運動としてのベ平連の特異な展開、様々な叛乱に対する機動隊による制圧から、セクトの内ゲバを経て、連合赤軍に至り、さらにウーマンリブで収束する一つの時代が塊の像となって迫ってくる。
それは、同時期にアメリカやフランスで生じた政治自体を巻き込んだ学生叛乱の動きとは異なる、著者が指摘する日本の現代社会に移行する転換期の時代だったのだろうと、合点する。
そのような歴史のまとめ方は、自己否定という言葉が個人の長いその後の時間を引きずったこととの乖離を埋めることにやや躊躇するが、戦後民主主義の画期として、60年ではなく、近代から現代への転機に否応なく直面した68年としたことに頷く点は多い。
その底流が、時代から切り捨てられた若人達の心の問題として00年前後の新自由主義のもとで再度現れ、この間何とか食えてきた年老いた私に現代の貧困に対する後ろめたさを感じさせた。また、この書の展開とは離れ、政治の場面で09年に政権交代となって表に出たというような歴史認識も可能かも知れない。
私の時代とやや交錯したあの時代、社会学者小熊英二の1968を貫いていたのは、このような思いっきり視点を引いた、歴史的な問題意識の元での醒めた視点だった。(いずれも新曜社「1968下」の結論より抜粋)
…(「あの時代」の叛乱の要因を、)①大学生の大衆化、②高度成長による社会変動、③戦後の民主教育のほかに、第四の要因を挙げるならば、当時の若者のアイデンティティ・クライシスと「現代的不幸」からの脱却願望がある。P786
…彼らはいわば、親世代が直面した貧困・飢餓・戦争などの分かりやすい「近代的不幸」とは異なる、言語化しにくい(そして最後まで彼らが言語化できなかった)「現代的不幸」に集団的に直面した初めての世代であった。P787
…自己の存在確認が全共闘運動の一つの要因であったなら、そこに疑問がわく。なぜ政治(的)運動という形態で、それが行われなければならなかったか。P789
美しくも切ない情景 [メモ]
美しくも切ない、感動的な生の情景の描写に出会った。
「動的平衡」福岡伸一著(木楽舎)にあった一文である。紹介する。
ライアル・ワトソン「エレファントム」の一節
「象は太古の昔からヒトを見守ってきた。象たちは、ヒトの祖先が樹から降り、森林から草原に出たときも、そっと場所を譲ってくれたほどだった」
南アフリカのクニスナには、かつてたくさんの象が穏やかに棲息していた。象たちは母系社会を形作って生活する。リーダーの母親を何頭かの雌象が共同で小象を育てる。雄は普通、その群とは離れて暮らす。
アフリカの象たちは、徹底的な象牙乱獲のターゲットとなっていった。開発の波も容赦なく草原と樹木を収奪し、そこに引かれた大規模な道路は象の生活圏を寸断していった。
1981年、地元の野生動物保護団体が人びとに象の情報を求めた。この時点でクニスナ地区に生存する象はわずか三頭が確認されるだけとなっていた。これ以外の象を発見するための手がかり、あるいは骨や死体を見つけた人にはいくらかの謝礼金が出ることになっていた。しかし、何も情報は得られなかった。
1987年に、ハイキングをしていたグループが二頭の象に遭遇した。母象と十代の子どもだった。おそらく七年前に確認されていた三頭のうちの二頭だ。
1990年、森林局は、本格的な象の調査に取りかかった。森で働く人びとを動員し、象の行動範囲である森の中心部全体を200ヤードの間隔で歩きまわった。その結果、深刻な事態が明らかになった。森に残された象はたった一頭になっていた。
おそらく過去にも目撃されてきた母親象だった。推定年齢45歳。このクニスナ最後の象は、人びとから「太母(メイトリアーク)」と呼ばれる雌だった。1世紀ほど前に500頭もいた象の群れは、ついに一頭を残すのみとなった。
それから数年後、アメリカにいたライアル・ワトソンの元に不穏な知らせが届いた。最後の母象がここ数ヶ月、行方不明になっているというのだ。ワトソンは急遽、南アフリカ行きを決心する。メイトリアークを探し、その無事を確認するために…。
生涯、母系家族を維持し、常にコミュニケーションを取り合って暮らしてきた象が、たった一頭残されたとき、彼女はどこへ行くだろうか。ワトソンにはある確信があった。彼は少年時代を過ごした南アフリカのある場所で、かつて象を見たことがあったのだ。
それはクニスナ地区から国道を越え、森林地帯が終わるところ、そこでアフリカの台地は突然崖となり、その下の海面に垂直に落ち込む。切り立った崖の上から大海原が見通せる。
はたして、ワトソンは、その崖の上にたたずむメイトリアークを見た。そしてその光景を次のように書き記した。
「私は彼女に心を奪われていた。この偉大なる母が、生まれて初めての孤独を経験している。それを思うと、胸が痛んだ。無数の老いた孤独な魂たちが、目の前に浮かび上がってきた。救いのない悲しみが私を押しつぶそうとしていた。しかし、その瞬間、さらに驚くべきことが起こった。
空気に鼓動が戻ってきた。私はそれを感じ、徐々にその意味を理解した。シロナガスクジラが海面に浮かび上がり、じっと岸の方を向いていた。潮を吹きだす穴までがはっきりと見えた。
太母は、この鯨に会いにきていたのだ。海で最も大きな生き物と、陸で最も大きな生き物が、ほんの100ヤードの距離で向かい合っている。そして間違いなく、意志を通じ合わせている。超低周波数の声で語り合っている。
大きな脳と長い寿命を持ち、わずかな子孫に大きな資源をつぎこむ苦労を理解するものたち。高度な社会の重要性と、その喜びを知るものたち、この美しい稀少な女性たちは、ケープの海岸の垣根越しに、お互いの苦労を分かち合っていた。女同士で、太母同士で、種の終わりを目前に控えた生き残り同士で」
「エレファントム」の中の最も美しいシーンである。自然界は歌声で満ちている。象たちは低周波で語り合っている。ヒトはただそれが聞こえないだけなのだ。
この事実は、1984年、動物学者ケイティ・ペインが超低周波録音装置を動物園に持ち込むまで誰も気がつかなかった。驚くべきことに象舎の中は音であふれていた。人間に知覚できるとされるより3オクターブも低い音が。二頭の象は1m近い厚みのコンクリート壁を隔てて、じっと向かい合って話していた。
「動的平衡」福岡伸一著(木楽舎)にあった一文である。紹介する。
ライアル・ワトソン「エレファントム」の一節
「象は太古の昔からヒトを見守ってきた。象たちは、ヒトの祖先が樹から降り、森林から草原に出たときも、そっと場所を譲ってくれたほどだった」
南アフリカのクニスナには、かつてたくさんの象が穏やかに棲息していた。象たちは母系社会を形作って生活する。リーダーの母親を何頭かの雌象が共同で小象を育てる。雄は普通、その群とは離れて暮らす。
アフリカの象たちは、徹底的な象牙乱獲のターゲットとなっていった。開発の波も容赦なく草原と樹木を収奪し、そこに引かれた大規模な道路は象の生活圏を寸断していった。
1981年、地元の野生動物保護団体が人びとに象の情報を求めた。この時点でクニスナ地区に生存する象はわずか三頭が確認されるだけとなっていた。これ以外の象を発見するための手がかり、あるいは骨や死体を見つけた人にはいくらかの謝礼金が出ることになっていた。しかし、何も情報は得られなかった。
1987年に、ハイキングをしていたグループが二頭の象に遭遇した。母象と十代の子どもだった。おそらく七年前に確認されていた三頭のうちの二頭だ。
1990年、森林局は、本格的な象の調査に取りかかった。森で働く人びとを動員し、象の行動範囲である森の中心部全体を200ヤードの間隔で歩きまわった。その結果、深刻な事態が明らかになった。森に残された象はたった一頭になっていた。
おそらく過去にも目撃されてきた母親象だった。推定年齢45歳。このクニスナ最後の象は、人びとから「太母(メイトリアーク)」と呼ばれる雌だった。1世紀ほど前に500頭もいた象の群れは、ついに一頭を残すのみとなった。
それから数年後、アメリカにいたライアル・ワトソンの元に不穏な知らせが届いた。最後の母象がここ数ヶ月、行方不明になっているというのだ。ワトソンは急遽、南アフリカ行きを決心する。メイトリアークを探し、その無事を確認するために…。
生涯、母系家族を維持し、常にコミュニケーションを取り合って暮らしてきた象が、たった一頭残されたとき、彼女はどこへ行くだろうか。ワトソンにはある確信があった。彼は少年時代を過ごした南アフリカのある場所で、かつて象を見たことがあったのだ。
それはクニスナ地区から国道を越え、森林地帯が終わるところ、そこでアフリカの台地は突然崖となり、その下の海面に垂直に落ち込む。切り立った崖の上から大海原が見通せる。
はたして、ワトソンは、その崖の上にたたずむメイトリアークを見た。そしてその光景を次のように書き記した。
「私は彼女に心を奪われていた。この偉大なる母が、生まれて初めての孤独を経験している。それを思うと、胸が痛んだ。無数の老いた孤独な魂たちが、目の前に浮かび上がってきた。救いのない悲しみが私を押しつぶそうとしていた。しかし、その瞬間、さらに驚くべきことが起こった。
空気に鼓動が戻ってきた。私はそれを感じ、徐々にその意味を理解した。シロナガスクジラが海面に浮かび上がり、じっと岸の方を向いていた。潮を吹きだす穴までがはっきりと見えた。
太母は、この鯨に会いにきていたのだ。海で最も大きな生き物と、陸で最も大きな生き物が、ほんの100ヤードの距離で向かい合っている。そして間違いなく、意志を通じ合わせている。超低周波数の声で語り合っている。
大きな脳と長い寿命を持ち、わずかな子孫に大きな資源をつぎこむ苦労を理解するものたち。高度な社会の重要性と、その喜びを知るものたち、この美しい稀少な女性たちは、ケープの海岸の垣根越しに、お互いの苦労を分かち合っていた。女同士で、太母同士で、種の終わりを目前に控えた生き残り同士で」
「エレファントム」の中の最も美しいシーンである。自然界は歌声で満ちている。象たちは低周波で語り合っている。ヒトはただそれが聞こえないだけなのだ。
この事実は、1984年、動物学者ケイティ・ペインが超低周波録音装置を動物園に持ち込むまで誰も気がつかなかった。驚くべきことに象舎の中は音であふれていた。人間に知覚できるとされるより3オクターブも低い音が。二頭の象は1m近い厚みのコンクリート壁を隔てて、じっと向かい合って話していた。






