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1月17日 [震災の風景]

街が崩壊し、目の前に凄まじい光景が広がり、私に無力をつきつけ、立ち止まることを強いた阪神大震災の記憶は薄れている。生活に対する公共の優位性を批判した最高裁の判決があった43号のことも、復旧期に出会った在日の方々やボランティアによる様々な感動的な出来事もである。被災された当事者の方には忘れがたい記憶であろうが、外からその地を訪れた私にとって、もう15年も経ったのだ。

そんな時に、5万人以上の死傷者と報道されているハイチの大地震が都市の壊滅の記憶を蘇らせる。災害は弱者を直撃すると、阪神大震災後に語られた。ハイチは、最貧国である。震災発生後、海外のニュースは、ハイチの被災をトップにし、自国がどう援助するかを取り上げている。日本では、ハイチへの支援の対応が遅れ、小沢幹事長の土地買収に関わる政治資金疑惑の話題が中心を占める。しかしそれも日本を襲う激震ではある。

今年の新成人は全て平成生まれになった。久し振りに戦後の年表をまとめていると、阪神大震災も、ベルリンの壁の崩壊と同様に、歴史の中のエポックの中に現れる。日本経済が慢心して招いたバブルの崩壊と格差社会を鮮明にした市場原理主義に覆われる間の、長い平成不況期の中に位置している。ネット社会は幕開けしたものの利用者は限定的で、ケイタイ文化が未だ現れておらず、NPOが生まれる前の、ボランティア元年の出来事である。

15年も前の一年は私にとって都市を考える原点への回帰の年だった。阪神との個人的な付き合いは、私の思いを表現する対象として都市があり、生活があったことを教えてくれた。長田の在日の方々を通して見た阪神の復旧は形あるものである以上に、人の生の意味を問いかけてくれた。長田の夏の家を作った池上さんに、我が家の改築を委ねたのもその時の記憶のせいだ。それは昨年十周年を迎えた、震災後に戦う税理士として晩年を送り、私の文字に惹かれてマチュピチュとアマゾンを訪ねた義理の兄貴の記憶にも重なる。

倒壊した阪神高速道路が象徴的な風景として記憶に残るが、私には43号の最高裁判決が私の長年のテーマだった道路公害の転換点であり、福祉に勝る公共財はないという答は、ほぼ終止符だった。その後に沿道整備の勉強会をコンサル仲間で立ち上げた。今ではそれも終わり、一昨日彼らが集まり新年会をした。15年経ち、若かった彼らも50歳前後になっている。そして、いつの間にか私は、コモンの思想が何の抵抗もなく自分の中に受け入れられていく齢になっていた。

私にとって、その後の時間は様々なものを流し去った。雑誌の編集、沿道環境の総括、都市マスタープラン、大学での授業、公園遊び、住まいの改築などで、その都度の時間を埋め合わせたが、時は一つずつ終わりを告げる。長く付き合いたかった何人かは、既にこの世にいない。特に、30年以上も前に創立した事務所を次世代にバトンタッチした今年は、こんなにも社会が遠いものかを実感する。

経済の先行きに明るさが見えず、人口減少が急速に進む中で、造る時代は既に終わり、放置され、放棄されていく建築などをいかに解体し、都市を再生・持続させていくかの時代に入っている。そのような時代に生じた政権交代は、私に価値観の変更を強要するが、官僚政治の終息、アメリカから中国への急激なシフト、CO2の25%削減宣言、極度に悪化する財政下での子育ての社会的な責任など、理念先行の急速な舵取りが招く混沌に頭が付いていけずにいる。

インターネットに流れる切り刻まれた情報によって新聞が消える日も現実味を帯びている。新聞を読まない世代が旧来の情報文化を駆逐するのだ。それがどんな意味を持つのか、ケイタイ文化からも取り残されている私には想像ができない。

阪神大震災から15年、社会は大きな変貌を遂げた。今年はまた、敗戦から15年目に起きた60年安保から50年の節目でもある。私は60年安保を知らず、その余波の時代に学生生活を送り、最後の年に1968を経験した。今やそこからも遠い。齢をとるにしたがって、時が過ぎていく速度は増す。

今日は自省の日 [震災の風景]

阪神淡路大震災から14年も経つ。被災地域の時間は十分に経、風景も一変しているが、神戸では、広島や長崎と同じようにその日の記憶をとどめることを継続しており、現代都市で生じた大震災が投げ掛けた意味は、風化してはいないように思われる。

倒壊した阪神高速道路、その後に撤去され広々と空が広がった国道43号、それは都市型環境問題の象徴であった公害道路がダメージを受けた姿だった。その道路は、同年の7月に最高裁判決が下り、被害者の上によって立つ公共はない、福祉を欠いた公共はないと指弾された。その後、公共の名のもとで、高速道路は国の威信をかけて作り変えられ、遮音壁が道路に添ってつくられ、移転し家屋が無くなった跡地は今緑地になった。

震災の痕跡と直面して、地域の風景の断絶という現実に心が萎えた。震災から数日後、傾いたビル、廃墟と化した町を歩いていて、その正月まであった街並みや生活、人々の繋がりが途絶えてしまったことに胸が痛んだ。道端で祈りを捧げている人のそばを通るのが辛かった。それらの街の殆どは、いくつかの空地を抱えているとはいえ、新しい街並みに変貌している。高層住宅と大規模な公園も整っている。

当時絡んだ糸は、既に解け、もう一度組み直された。時間の経過が風化を招いたのではないとしたら、あの事象はどこに受け継がれたのだろう。

阪神震災後、ボランティアの出現、NPOの制度化、防災から減災への移行の議論、協働概念と新たな公共の概念などが生じた。被災の体験は、その後のいくつかの震災に応用され、被災の拡大を防いでおり、防災思想は深化しているように見える。
また絡んだ糸を解きほぐしていくさまざまな取り組みは、住民参加の原点を教えてくれる動きであったし、それに応じて制度も変化しつつある。
住民の質によって左右されているが、行政計画の情報公開、住民参加の制度化は、一定程度進んだ。財源委譲は不完全なままであり、共同体の履歴を断つ平成の嘆かわしい市町村合併が進んだものの、地方分権の制度は整えられ、地方主権の議論が出始めている。災害に対する考え方の変化は、耐震性能の強化に結びついたが、無原則的な規制緩和によって偽装建築を生み、一旦道を誤った。
制度の整備が、統治の仕方に結びついて初めて意味があることを、今日の状況は示している。

私にとってその体験は、既定の制度に着地を委ねる常識の都市計画から地域に立脚する都市の計画への移行、言い換えれば出口論から入口論への問い、参加型社会の芽生えの感知などだった。最近では、ソーシャル・キャピタルの意味の確認に通じている。その切っ掛けは、50歳の時に直面したあの風景だった。
風化を拒む意志は、個人の中にある。

当時、日本の土地バブルの崩壊後の失われた10年最中であった。その厳しさは、阪神大震災後に金融の危機を経て、デフレ状況に及んだ。
小泉の規制緩和はその救世主的な役割を演じたが、市場優先は、弱者を切り捨て、平等民主主義を根こそぎにし、格差社会を生んだ。政局を郵政民営化に絞った熱狂の総選挙は、日本の悲劇を一層酷くした。
そして今、百年に一度と言われるアメリカ発の金融危機、産業の縮小が襲っている。

テロとの戦いという名目で中東との戦争を正当化したブッシュの戦略はアラブ諸国に火をつけた。また、彼の支持がイスラエルのガザでの虐殺を生んでいる。アメリカはオバマを選んだが、唯一の希望は、ブッシュ時代の過ちを早急に認め、イスラエルのシオニズムの拡大を止め、パレスチナの開放を一刻も早く実現することにある。
さて、今、日経で連載されているハワード・ベーカーの「私の履歴書」は、クルーグマンの『格差はつくられた』とあわせて読むと、アメリカの政治が浮き彫りになって現れてくる。ブッシュがレーガンの首席補佐官だった彼を日本大使に据えた理由が透けてくる。そして、小泉政権が何故ブッシュと二人三脚を組み続けたかもである。続くシーファーと言い、沖縄の悲劇が深刻化している理由も見えてくる。

世界に危機をもたらしたブッシュが退場し、オバマが登場すると、日本の政治の貧しさがより際立ってくる。
民主主義を国会の特権の中に封じ込め、方向を打ち出せない日本の政治の底の浅さがである。制度をつくっても、その実現を放棄している姿がである。

再度原点を問う時期に来ている。
先ずそれは、人がその人生を全うするための場づくりであり、不戦の上に立つ平和であり、意図的な格差を廃した平等な社会であるように思う。
それを支えるのは、政治の場に委ねる前に、人の尊厳、自然への畏敬、文化や風土の尊重、人々の繋がり、互酬性、批判精神、公共の共有、セーフティネットなどなど、身近なところへの自省にある。
明るい兆しは、日比谷公園での派遣村の年越しにあった。社会の絆を取り戻すことが、これからの一歩なのだろう。

防災フォーラム [震災の風景]

一月以上も前のことになるが、目黒区の防災フォーラムに出た。全体で30名強、公募委員は私を含めて10名だった。
自己紹介で、何気なく、目黒区では防災ではなく減災が課題であり、自助・共助に対して責務を議論するのは不都合であると思うと話したが、防災基本条例に着地を予定しているフォーラムの目的は、どうもその辺りだった。

区では、震災想定の見直しの結果、想定被災者が倍増したという。そこが一番頭の痛い課題であるように聞こえた。その不安材料を別にすると、条例に向けて、行政は自信ありげに枠組みを提示し、そこに全ての説明が書かれているといった感じで資料を示していたが、実はそこに落とし穴があった。
想定被災者の増大の結果、避難場所が不足することだけでなく、公園やグランドも少なく、農地など空閑地のない目黒では、復興のための仮設住宅問題も悩ましい。世田谷区と隣接する碑文谷公園で当然世田谷区下馬の住民を受け入れることも、考慮すべき課題の一つに入ってくる。区の分担である一次避難場所と、都の分担である広域避難場所の連携についての議論もお座なりであり、区の資料では、広域避難場所は取り上げられておらず、被災者の収用が不足するという整理がなされていた。自分のテリトリーにしか目を向けようとしていなかった。

簡単な説明があった後、私は、防災と減災とは違う概念ではないかと質問したが、区の担当課長は防災の枠の中に減災があるとの認識だった。首都大の市古さんは、流石に勉強されているようで、環境と防災とは対立する場合があるので、減災という概念が意味を持つようになったと説明し、例として、ダムをあげていた。
私は、防災は公助に対応している概念であり、大規模災害において公助のみでは不足であり、民間の力を必要とした自助、共助を導入せざるを得なかったときに減災が着目されたと考えている。特に被災後、回復期に被災によって受けた様々なダメージ、更には避難場所での生活の厳しさを和らげるのは、防災の発想ではありえず、減災の取り組みが必要になる。
防災の枠組みとは別に減災を取り上げる必要があるのだ。

こんなことを考えていたためだろう、提示された資料では、被災後の一般の居住者の緊急行動全般に関して、災害応急対策という一つのテーマに括られていたことについても気になった。そのため、議論において、災害時の状況と対応を、時間を追って少し詳しく区分して議論することが重要だと指摘した。それは、経験のない住民にとって、被災の状況がイメージしにくく、どう行動すべきかの議論が深まらないことを危惧するためだった。
自助段階にあるのに、共助は可能かといったことに焦点を当てなければ、責務の議論は空論になるだけだし、自宅が壊れたか使えるかの想定は大きな差を生む。また、被災後の辛く、長い時間についても、目を向けておく必要がある。

また、自助と公助の中間部分を、共助と一括りすることに疑問を呈しておいた。共助の中には、行政の予算措置の限界に起因する部分と、行政とのコラボレーションを必要とする場面、住民の自治に属する領域があり、それをきめ細かに議論する必要があるためだ。区の資料では被災弱者である高齢者や身障者、外国籍の人たちを取り上げていたが、自助の力がない人たちも、共助の対象になる。ふと、阪神大震災後に出会った、連絡網が閉ざされた在日の人たちの苦悩を思い出した。
住民を集めた場で関係者の責務を議論しようというのであれば、恐らくここが最も重要なのだ。自治領域に関わる内容に関して、自治基本条例がない時点で、責務規定を一般的に議論することは避ける方が良い。また、近隣のレベルでの共助を責務として描こうとすると、向こう三軒両隣の議論になりかねない。協働という枠組みも、目黒区ではきちんとされていない。

また、目黒区では地域の住民組織として、住区住民会議と町会の間の整理が必要である。区民フォーラムには町会しか委員を出していないが、補完避難所として位置づけられている住区の防災の位置づけがないのは不自然である。この際、改めて、屋上屋的な位置づけになっている小学校区単位に設定された住区の役割も整理すべきだろうと、説明を受けながら、様々なことが頭をよぎった。
会が終わり、帰る道で、目黒区の平均世帯人数も頭をよぎった。世帯人口が二人を切るということの意味をどう考えるべきなのだろう。単身者は、ワンルームに住む若人だけでなく高齢者も多い。

避難場所が不足するというのであれば、大規模店の駐車場をどう位置づけるかも鍵となる。行政計画では想定外となっている社寺の位置づけも重要である。それらは、今後議論されていくことになるのだろう。
また、死亡者の安置所の計画の情報の公開も重要であるし、同じ場所が緊急時以降の復旧時に避難場所として利用されるのかどうかも整理しておく必要がある。

耐震設計に端を発した建築偽装は、安全への願いを遠ざけ、国交省の対応の不備も加わり、建築業界への不信が収まりそうもない。減災のための対策で短期的に効果があるのは、恐らく倒壊しない家屋での対応である。そこで一人でも避難民を少なくすることが、避難生活者を限定できるし、経済的である。
修復型の街づくり手法で対応が進められている密集市街地対策は、残念ながら抜本的な防災対策にはなりえない。しかも現行の制度では、事業地区は、予算上限られた範囲で設定されている。

阪神淡路大震災のときに痛感した、人間としての尊厳を守りながら、被災者の生活再建への道を描くことがどのように可能か。
議論すべき課題は山積されているようだ。到底、行政が用意した枠組みに納まるとは思えなかった。

昨日の新聞で、都心で被害を受けた人達の避難について、とんでもない時間がかかることが予想されるという。それは、皆が無事であることを条件にしているのだろうが、帰途の途中での市街地の被害状況、医療支援、休憩の場所等、鳥の目が必要になりそうだ。

1月17日 [震災の風景]

阪神淡路大震災から干支を一巡し、更に一年過ぎた。書き始めてから少し経った、2年前のブログで、震災の当時、私の中で宿った思いを載せた。もう一度、ブログを辿り、「震災の風景」を振り返ってみる。
※このブログをお読みの方で、カテゴリー「震災の風景」に目を通しておられなければ、一度アクセスください。

当時、初めて現前した現代都市の崩壊、悲惨な二次災害、亡くなった多くの方、土地の記憶の喪失、被災者相互の扶助、倒壊した阪神高速と43号の最高裁判決、在日の問題、ボランティア、避難所での長い生活、様々に寄せられた支援、セイフティネット、心のケア、きんもくせいの便り、様々なことが交錯していた。
飽食の時代に、震災の地から発せられる思いが日本の中で共振し、多くの人々によって共有された。地域コミュニティも人間の尊厳も消滅してはいなかった。そう感じた。そこで費やした時間は、私自身の原点の一つに加わった。

今から思えば、バブル崩壊後の失われた10年の真っ只中だったが、大震災のあった95年が円高のピークであり、日本の経済に幻想を抱いていた最後の頃だった。
それから相当な年月が経ち、失われ、失う時が続き、財政赤字は膨れ上がり、人口減少時代に突入し、年金制度は風前の灯となっていた。カネ儲けのために規制緩和が叫ばれ、グローバル経済に巻き込まれた今では、セイフティネットは機能せず、円は漂流し、非正規社員が増え、格差が当然の社会になっている。
新自由主義が跋扈し、様々な偽装で上塗りされた社会は薄っぺらで、脆かった。

被災地では、共通経験のない新住民が増え、防災に対する風化が進んでいるという記事が流れる。裏地には傷跡が無くなってはいないが、表地は新しい姿を現わし、新住民はそこに移り住む。風景は時とともに変わり、いつまでも同じ意識を持続することは難しい。
戦争すらもそうである。戦争を知らない世代が還暦を越え、年金生活者に加わったのだ。その時に共有される言葉は、戦争ではなく、平和である。しかし、何度も繰り返される処分故に、戦争の伝承が持続する沖縄では、日本の平和の偽装に照準を合わせる。どのような時代になってもヒロシマ、ナガサキが平和の発信地であり続け、オキナワが戦争の告発者であり続けるように、ハンシンは現代の都市の安全と安心の原点、住民自らの地域再生のありようの発信地であり続ける。
そのように自分自身との対話を繰り返していくことが、風化に抗する、人々の中に宿り続ける思いの共有の持つ意味ではないだろうかと思う。或いは、そうとしかいえない自分がいると言うべきか。

改めて、合掌


阪神大震災1年後のメモ その3 [震災の風景]

3問題は何だったのか

昨年(95年)の43号判決、西淀川訴訟の進展、戦後50年にさらけ出した我が国の国家犯罪や国際政治に対する無反省振り、時間がかかり過ぎ妥協を呼ばざるを得なかった水俣病の和解、そして今年に入って、厚生省を揺るがし厚生大臣管の名を高めた過去の判断を巡っての告発を残しながらのHIV訴訟の和解、昨年の3/20の地下鉄サリン事件を切っ掛けにしたオウム真理教の摘発とオウム裁判のスタート、バブルの崩壊を決着すべき時点で露になった余りに大きな借財、税金投入を巡る住専問題での国会審議の空転、東京湾新都心計画の挫折等、阪神大震災後、余りに多くのことが起こった。
個々人には更に個別の風景がある。

これらは一体何だったのか。

東欧諸国の激動と官僚社会主義体制の崩壊は、この10年の間に生じた。それは国際的に成立しなかった経済力、政治的判断もさることながら、国内における人々の明日に希望をもてない精神的・経済的疲弊、新たな階級形成とその固定化によって成立した特権に対する嫌気、そして何よりも人間の自由の束縛の限界に起因したのではないかと思う。その激変は、中枢の権力闘争を切っ掛けにしたとしても、明日の主体であり、責任を果たす青年層の支持なくして成立しはしなかったはずである。

それは対岸の火事ではなく、計画経済の成功のもとで、(社会)資本主義国家として高度成長を歩んだ後、今我が国が突入している経済の成熟期と高齢社会において、この一年の間に露になった状況は、相当に議論を要するように思われる。上記した様々な状況は、戦前から続く官僚への権力集中を基礎とした安定した国家体制のもとで、戦後与えられ、それを無限の権利として運用してしまった私有財産制を背景にしたため、全く自制が効かず、議会制民主主義のルールを官僚国家に置き換えて我流に作り出した、私利私欲の原則の結果の出現としてしか理解できない。互助会的な和の精神は、全体として機能していないのだ。これを制度疲労と言わずして何と呼ぶのだろうか。

自己を客観視することができない存在としての人間は、悪意からでなくとも、残念ながら、過去も現在も自己合理化せざるを得ない存在である。
経済活動や相互の交通なくして人間の存立は危うい。しかし、このような私的規範なき、その故に信頼に足るルールなき社会で、全体量の推移しか興味を示さない官僚主導型の自由市場経済が陥る地点が、実は今日の末期的症状にあったとはいえないだろうか。

その仮定のもとで論じるのであれば、少なくとも制度疲労した現行の制度体系を変革するために、国民の間での公正さのもとの不平等についての合意形成、霞が関的官僚制度、永田町的議会政治制度の解体と地方政治主体への転換が、経済社会の見直しと同時に必要となる。その目的の一つに、現代社会を担うにふさわしい新たな責任体系の創出があり、そのために変革の背景には、官民双方について、徹底した情報開示が必要となる。そして、官民双方、既得権益を一旦全て排除するだけの強い意志が必要となろう。

また、この状況を招いてしまった日本人のアイデンティティの崩壊に見る、精神風土の課題もないがしろにはできない。基本的な点、それは、救済されるのも、自立するのも、顔の見えない集合ではなく、具体に生活をしている一人ひとりの個人であるということである。和という言葉が好きで、人間関係における上下の秩序を大切にし、自己を他人に預け、全体への奉仕という莫とした価値観を保持しながら、同時に個人の自由や自立を促すような議論は、残念ながら成立しはしないことを知るべきなのだろう。例えば対になるための個人の葛藤、コミュニティの一員たる個人の自立、個人はスタートであるが、帰結ではない。しかし同時に、自由意志に反してマスの決定に取り込まれることを拒否する権限を、個人は持ち続ける必要があり、その権限と同時に成立する責任を受け持つ仕組みを作り出す必要がある。ただそれは、自由意志を持ちえ、その重要性を認める人にしか当てはまらないことではあり、そこに焦点を当ててゆくことが答えになるかも知れない。

情報の開示は決して自己のアリバイ証明のために必要なものではなく、他の人々との結果の共有のために、一つの決定の背景全てに対してなされることを必要とする。そのように客観的な判断を可能たらしめることが情報開示の目的であり、提示される情報は総合的である必要がある。和をもって尊しとなすことを政治・関係の第一条とする我が国の風土では、不透明なままの状態で相手の意志を受け入れることを、全幅の信頼の表現としてきた。そこでは理由を問うことは、或いは自分の意志を表明することは、その信頼関係を崩すものとして礼儀知らずの行為とされてきた。しかし実は多くの議論の背景にあるのは、自分の権益の保護のためであり、言葉が不要なのはその価値観を共有しているとの幻想にもとづいているに過ぎない。或いは、それは余りに惨めな言葉であるために、口に出して表現することがはばかられるせいかも知れない。人は自己の正義を主張し続けられるほどクリーンではない。

このような外面上の人分かりの良さや優しさの裏で、互助会的でありながら排他的で、私利に執着し、自己責任を全うせず、社会的倫理感の薄い風土が、世界において異質なバブルとその後の凋落の原因を作り出し、大量殺人を合理化した宗教を可能たらしめ、政治家と官僚の特権保持と自らの行為の隠蔽を当然とさせてきたということはできないだろうか。日本を描こうとすると、自分に余りにも強く備わってくる日本人の血が問われ、どうしても絶望的な風景が眼前に現れてくる。

自分の背丈で処理すること、それが基本であろうが、当初の住専5800億円の処理に対する合意もできず、阪神復興へ3兆円しかかけられない国民との合意といった実体が、今後露になってゆくであろう住専絡みの不良債権100兆円、JRの債務28兆円を背景とした、国民への30兆円規模のしわよせに対して政治的に正式な決着がつくとは考えがたい。またぞろ先送りであり、なし崩し的予算組みによる不透明な決着である。
それを補うのはどのような方法なのだろうか。
土地税であり、消費税であることの根拠があるのか。バブルを謳歌し、未だに借金返済の努力を怠っている輩、そしてHIV訴訟で行われた厚生省関係者の処理と同様、大蔵省や金融機関にとどまらず、バブルを実体的に生じさせた建設省を初めとする関係者の処罰もまた必要である。

一般的な平等主義を敷衍して、何かを処理しようとすると、公平さという理念をもって理論武装することを必要とする。
それは当事者だけのとどまらないはずであるが、日本では公平さは右へ倣えの基準に置き換わる。
その基準が不透明で、不合理な結論を導くようになりだしたのは、万人が理解を示す最低の基準が、社会的に不明確になり初めてからであろう。
そのため、今後は公正さを巡る議論のもとで様々な権利と義務を背負った平等の定義をし直すことが必要となる。

そのとき新たなルールとしての民主主義が再度問われることになろう。
それは、政策等の判断や意思決定に際して対象と決定主体を如何に相対化できるか、そしてまたこれからの生において自己の権利・責任の主体である個人を如何に大切にできるかに通じてゆく。

その決定は恐らく様々になされるはずであり、政治の世界に見るようないつも同じ多数決といった数のルールが適用されることは適切ではない。
しかしまた現在の行政が保有しているような形態、即ちそれらの決定権が一定の権力もとに占有されるような構造を続けてはならない。

例えば、道路環境では、43号の最高裁判決は、制度の中で解いてきた方法では殆ど絶望的であったそれまで障害だったいくつもの壁をとっぱらった。
判決後の建設省道路行政の環境政策へのシフトや沿道法の改正がその一つであるし、今まで行政内部の要望を殆ど拒み続けた警視庁では、環七や環八で交通規制等のモデル事業を展開するほどにまで追い詰められた。
しかしその情報や決定権が監督官庁や担当行政に占有されている限り、最終的には必ずといってよいほど自己合理化に走り、本来主体であったはずの被害者である住民が切り捨てられてきたことは今迄嫌という程見てきた。
本来生活障害の防止を目的とした施策において、良しという判断は、障害を受けている人間が下すことができる仕組みを採用するべきなのである。

例えば被災地の復興では、公正さを期すために、自立復興に意志ある特定の人間に支援し、自助努力の上で戻ることができるような仕組みの構築から、再度組み立て直すことが必要である。
皆が平等に戻れるのは、復興後であってよい。
仮設住宅のように全てを行政が用意し、弱者に対するお仕着せの上でのくじ引きは、権力ある側の公平さのアリバイ証明になっても、くじを引く側にとって平等でも何でもない。
この反省の上で、むしろ一人ひとりが選択し直せるような権限を持たせ、復興公営住宅の用意をするべきである。身勝手な温情主義により人間の尊厳を奪い、活力を失わせ、これ以上傷つけるような人を惨めにさせてゆく方法を取り続けるのはそろそろやめにしよう。
戦後の経済成長期に導入された、今日の消費経済社会においては古びてしまった経済理論を背景にして採用された阪神地域の拠点型の復興計画は、悲劇をもたらしそうな予感がする。
人は理念で他の人をひれ伏させてはならないし、権力を背景にした理論で他の人の人生をもてあそんではいけない。

オウム真理教であり、住専問題であり、HIV訴訟であり、共通しているのは自らの思考停止の上での、飽くなき自己権益の追及であり、自己保身と自己責任の放棄である。
思考停止は倫理観の崩壊、或いは経済至上主義の結果生まれた一億総白痴化によって説明されるのかも知れないが、戦後50年経った今は一体何を根拠として無責任の体系を維持しているのだろう。


阪神大震災1年後のメモ その2 [震災の風景]

2仮設建築から長期仮設建築、本格建築への移行

長田夏の家は、長田の人々がその地で復興期を迎えるために必要であった、被災地での定住に向かうための大地と空を繋ぐ仮設建築の提案であった。
それは長くて5年、通常3年程度の生活を考えたものであった。

しかし今、全体の復興には、恐らくもっと時間がかかることが明らかになりつつあり、復興のためにそれぞれの居住地に戻るための、10年程度の本格建築と中間の仮設建築の議論が未だに必要である。それは、夏冬に耐えられる質の高い長田の家、或いは長田の共同住宅かも知れない。

それにも拘わらず、仮に戻るのであれば本格建築が必要であるとの議論が先行する。それは、行政が提供する仮設住宅は市民にとって只であるという簡単な理由からである。

しかしそこに穽は無いだろうか。行政が半倒壊の建築の除却を無償でやったことが、様々な悲劇を生む源の一つであった。半壊の建築の多くは、少しばかりの補強で、仮設並みの住宅として活用できたはずである。そして、借地、借家の問題を顕在化させずに済んだ。

仮設住宅のリース料を何故仮設建築、本格建築に当てられないのだろうか。余りに貧しく、職がなく、自分では何もできかった時代から、多少の援助のもとでの、自主復旧・自立復興を原則とする時代に入っている時代に、無償による供給は、甘えを助長し、長くなるほど人々を萎えさせ、自立の道から遠ざける。その間に、本人にではなくリース業者に支払われる金額は、自立が長引くもとでは、恐らく他の地域の義援金の匹敵することになる。

これからの整理において、再開発地区、区画整理地区、その他地区に分ける必要があり、その他地区では豊かさに応じて3ランク位に分割する。その上で、復興建築の用途に分け、共同ビル系の質的区分、公営住宅の供給とに分ければ、地区条件による問題の所在の差異が相当に見えてくるように思う。

借地、借家の問題は恐らくどこでも同様であり、どこが保証するかで、救済方法が見えてこよう。いわゆるコープ住宅に限らず、コープ型の共同債務が可能であれば、例えば灘生協を後ろ盾にして借地・借家人協会を作り出し、銀行からの受け皿になることがこれから有効である。

一緒くたの議論は、格差を広げる。ことは簡単なのかも知れない。震災直後から同じテーマ、一人ひとりの現場への復帰のプログラムを立てればよいのだ。具体的な条件を背負っている個々人の復興を第一優先で考えればよい。それをマスで考え、マスで解答を出そうとしているために見えてこないだけなのだ。人の顔が見えない場で、具体的な解決策など思い描くことなどできはしない。その条件を出すことは、意外と簡単かも知れない。仕分けしていけば、せいぜい百程度の分類のように感じる。

3月2~3日、野沢温泉に行った。池上氏の長田の夏の家の銀章祝いで、彼のおごりという変梃な巡り合わせになった。銀章のメダルのコピーは素敵だった。そこで、五十嵐さんのほか、李さんと金さんに会い、今の神戸の話を聞く。戻る人の資金をどうするかということが金さんの話のテーマだった。

そして3月5日、半年以上も来ていなかった長田と六甲道を歩いた。表地は家並みが少しずつ戻ってきているが、裏地は砕かれたレンガがそのままの更地だった。家が建ちだした表地と言っても、表面が不燃材で張られた安普請の木造建築と、仮設住宅と同様のユニットが殆どである。風景は地区によって大きく変化し、ぼんやり歩いていくと、惨めさがつのっていく。この一年、将来の像が語られなかったことが、そこに記されていた。未だ本格建築の段階ではなく、仮設建築の段階も同時平行にあるのだ。様々な段階の風景の混交を敢て作り出さないと、戻ってこれない人々を大量に作り出すこの街は死ぬ。

東京に戻ると、金さんからアジアタウンイベント企画のファックスが届いていた。そこに、今菅原市場にコンサルタントとして入っているという大阪外語大の人から、金さんから、何かアイデアがありそうだと聞いたということでの電話があった。
そこで思いついたことをいくつか話した。
・復興が未だに見えないこれまでの市民にとってのしくじりは、例えば、家の解体でも仮設住宅でも、只を受け入れたため生じたこと
・只を当てにしている人は、公営住宅に入ってもらえばよいこと
・今、あてがい扶持を期待している人が戻ってきても、残念ながら復興の足手まといになるだけであり、自ら復興に手を貸してくれそうな人に長田に戻ってきて欲しいこと
・それは冷静に見て、実は、今まで考えてきたような単に戻ることを望んでいる外から顔の見えない90%の人ではなく、自分から金を出し、汗をかくことができる10%の人であること
・そしてその人々が戻ることによって、年限内に借地権の確保、新たな借家権の成立を促すことができること
・その人々に対する企画を立てること
・そのためにアジアタウンのイベントで、イベント会場施設作りの一環として、2週間交代で、参加型の長田の家作りの実践会場を設け、それを2週間使い、次に長田の地区にどんどん移設してゆくこと
・そのタイプとして、住居のほか、店舗も、町工場もあるだろう
・住まいのために内装は自分でやることを知ってもらうこと
・依然として自力回復型の仮設建築である長田の家の改善案は魅力をもっており、このような企画が可能であれば、月に6棟程度仮設建築が長田に増えること
・少なくても、材料費はイベント費用が当てることができ、丸太を切り、窓を作り、家の形にするにはアジアタウンに集まってくる家作りボランティアの協力が期待できること
・1棟当たり百万程度にして商品化することにより、灘生協等に本格建築用の預託金としてストックして、銀行からの融資を受けるためのコープまちづくり基金ができること

突如かかってきた電話の相手は見ず知らずの人であり、地元で挫折感を味わいながらも、復興の現場で何かやっているというから、どんなレベルの人かは分からないが、もし私の見てきたものが正確であったとしたら、少しは分かってもらえたかも知れない。

問題は、いかにして復興の活力を作り出すかであり、そのためには、戦後慣れ親しんだ平等性の論理から少し離れ、少しばかり荒療治であっても、一人ひとりの活力を引き出す仕組みを用いることが必要なのだ。我々は民間であり、的確な判断のもとで、公正さを貫くことこそが重要なのである。今戻ってきて欲しい人と力を合わせて、将来戻ってきて欲しい人のための準備をする必要があるのだ。

長田の家が50棟もできれば頭金はでき、アジアタウンの運営による利益の一部を当てれば、1年後には、当初の基金を作り出すことができる。改良仮設建築であれば、もっと利益がでるはずだから、5割増しぐらいは期待できる。あとは順繰りに本格建築用に回していけばよい。

本格建築の際の上乗せ、或いは次の段階のアジアタウンの運営やオーダー型のファッションシューズの実験等により、預託金を順次増やす方策が考え出せれば、預託金をベースの融資と基金を組み合わせて、倍額近くは活用できるから、最低限でも2億円、1棟当たり4百万の融資として50棟程度の本格建築に寄与できる。或いは、借地権者による土地の確保が可能になる。

これは仮設住宅と本格建築を併せて、長田地区に限れば、以前の1/30のたった300人程度が戻るだけの企画かも知れないが、300人の1年間は、10万人日になる。地元の労働力が増大するだけでなく、地元に1年間で1億円以上の金が落ちる。それは復興への力になるはずだ。

10年後、復興住宅のための資金の回転が不要になりだしたとき、最後に、その集大成として、集会所としての長田夏の家を配置した、長田の祭りと、世界の靴とファッションを組み合わせたコーナーがある長田マダンの館を作り出せばよい。
こんなイメージが、長田の家の続きとして浮かんでくる。


阪神大震災1年後のいくつかのメモ [震災の風景]

震災1年後のいくつかのメモ

阪神淡路大震災の翌年に書いていた、3つのメモを順次載せる。

1 防災/復興/都市計画
住まうということをキーワードとして、簡単な課題の頭出し

1)防災の理念と原論
・都市の軸と防災の軸との関係=どちらの軸をベースにするか、扱う範囲の明確化、都市に防災のどこまでを盛り込むことができるか
・都市計画における防災計画の位置付け=日常性と非日常性の相互の計画の重なり、都市マスター又は総合計画での防災計画の理念の扱い
・今日の防災ビジョンはどのように可能か=防災に対する合意形成が今日の豊かな消費・選択型の個人・社会の価値観において(どのような)規範たりえるか、誰のために共通理念を持つ必要があるのか

2)防災技術
・緊急時の対応=現在の縦割り型防災計画の基本が果たして合理的か、自己救出・相互扶助次元の市民の役割、関係分野の洗い出しからのチェック、柔軟性が保持できるマニュアルの必要性
・復旧・復興=様々な被害想定とそれぞれの対応方法、消失よりも様々な破損状況の方が復興には難しいこと、生命の尊厳と住まいを確保するための避難場所の提供方法と建物の応急対策
・防災=地域危険度とまちづくりとのリンク、火災と地震倒壊のミックスで危険度の評価、想定できる諸条件のもとでの様々な情報の処理と公開の上での議論が必要、住民による防災マップ作り
・ハード面とソフト面の整理=目に見えるものと目に見えないもの、人と物の対応、壊れ方の評価、ライフラインや情報等のシステム、ボランティア等の位置づけ、担い手と支援の議論、保険制度の見直し

3)枠組みの原則
・地方分権=国と地方の権限区分、大震災の場合は広域市町村を想定、市民自治・自立の原則のもとでの行政の枠組みの議論
・情報開示=新たな民主主義の背景、判断主体の変化、行政等の責任の明確化と安全性等を含めた相対化、コスト論への繋ぎ
・意思決定=協議会・住民自治のあり方、行財政に対する合意形成の方法、基準等の判断主体の変化、被災者の意志の尊重の方法
・責任分担=国と地方、行政と国民、主体の置き方で切り口が変化、今後は住民の自己責任の領域に焦点を当てる必要あり

4)都市の計画論
・父なる都市計画と母なるまちづくり=今日の都市計画の未成熟部分、都市のインフラと住宅・コミュニティ、相互の計画の分離と結合
・全体からか地区単位からか、或いは計画からか事業からか=広域市町村の計画の必要性、地区単位の積み上げは全体に到達できるか、現行の都市計画制度の枠組みから解答を得ることの穽、常識への疑問
・逃げるまちづくりから、逃げなくともよいまちづくりへ=避難計画から街と建築の自主管理計画へ、不幸にならないこと
・時代の考慮=地球環境時代、成熟期から衰退期への移行、高度・情報/高齢/国際化/消費社会、民主主義の変化、価値観の変化

5)地域まちづくり・コミュニティ
・自立できる地域の単位=まちづくりの適正な単位、セルとしての街区・町丁界・小学校区・中学校区の様々な組み合わせ
・コミュニティの変化=範囲や組み合わせにおける広がり、付き合いや情報等の媒体による時代的変化、国際化まで含めた複合的な関係等の今日的特徴、形態に応じた相互扶助の可能性
・協議会方式の位置づけ=制度化の可能性、地域の単位と関係、住民参加にとどまらず計画の決定への関与、復興時と平時と両方を考慮

6)復興への計画論
・阪神淡路の記録と分析=恐らくそれぞれの地区の復興についての評価が今後重要、冷静に成功の条件と失敗の原因等を分析
・計画のスタート時点とベクトルの与え方=背後に住宅地のない商店街復旧と同様の拠点復興方式に対する様々な疑問、モデル・方式の比較検討と新たな道筋のあり方の議論、不幸の最小限化
・現代という時代の認識=衰退期に勃興期のモデルの適用は疑問、仮設住宅等の過去の基準の再検討、復興終了時点の像はその地区だけが独立して存在するわけではない、現在ではなく将来の時点の想像
・復興の段階区分ごとの課題と解決策の想定=段階の区分、行政と市民の役割分担のためのそれぞれの時点の明確な定義づけ
・連続性と継続性、又はサスティナビリティ=早急に被災地に戻る工夫、避難場所・仮設住宅・恒久住宅の連続性、復興に対する信頼
・復興事業の担保=43号に見られた復旧・国の予算措置の歪さ、復興財源の確保の方法、市民が自由に使える基金、保険制度

7)計画、決定主体
・プランナー論=防災・復興を巡る建築(集合住宅、コミュニティアーキテクチュア)・都市(事業、計画、まちづくり)・土木・行財政等の各分野のプランナーのあり方、職能としての必要性
・行政のリーダーシップとパートナーシップ=行政だけでなく復興する主体に委ねられる責任と権限の明確化が必要

8)その他、道路整備のあり方
①道路を巡る諸環境
・移動の利便性最大の追及の反省=都市集中を招いた第二の波の産業社会は果たして幸福だったか、大都市解体と地方分権社会の想定下で、次の世紀に幹線道路はどのような位置を占め、役割を担うか
・作る時代から有効利用する時代へ=時代の流れの早さに追い付かない道路整備、ストックをどう利用するかの時代へ
・交通運用の重視=TDMに見られる高度情報社会における交通処理方法の考え方の変化
・沿道環境への配慮=地球環境時代を背景とした43号最高裁判決、西淀川訴訟地裁判決、東京大気汚染訴訟等の最近の動向を考慮

②災害時の道路の役割
・延焼遮断効果=風や沿道・周辺地区等の条件によっての検討、防災帯の発想の是非については議論を要する、防災の観点から地域内の道路構成や公園の配置等まで議論できるか
・沿道の町並みの形成=建物の耐火化、セットバックの原則、地区内の道路と一体的に機能する防災井戸・街角広場の効果
・災害時の交通機能=避難・緊急輸送・消火・啓開活動等の同時多発的発生、緊急時のコントロールの方法、広域・地域の代替ルート或いは空や海の代替交通手段

③都市施設としての道路のあり方
・平時と緊急時の機能を複合的に位置づけておく必要性
・道路のネットワーク=将来の土地利用や自動車の役割を想定したうえでの交通配分の適正化、多機能・多段階のネットワークの形成(防災におけるモデル化も考慮)、阪神淡路に関して言えば復興を条件とする被災後こそ国勢が落ち込み産業構造の変化が訪れる将来像を冷静に議論すべき
・道路相互の機能分担=ネットワークと併せて道路の複合的機能への焦点の当て方、防災機能にとどまらず緑軸や沿道形成等の機能を有する道路空間機能の再構築
・土地利用形成の機能=幹線道路の独立的取り扱いの見直し、道路を今後は線ではなく都市の姿の中で扱うべき
・交通機能と沿道環境=幹線道路と住宅との調和はあり得ないとの結論に立ったときどちらを優先して選択するか、当たり前の議論に戻ることの必要性、大型車の市街地内進入の禁止を考えた場合の道路の配置のあり方


復興への検証(日本災害史から) [震災の風景]

日本災害史から

古代から現代までの災害の通史とも言うべき「日本災害史」(北原糸子編/吉川弘文館)で、心の部分に関わる安心について考えさせられた。
飢餓、地震、噴火、津波、台風、洪水、高潮、災害は繰り返し、日本を襲った。
近世に至るまで、それは人知を超えた因果応酬の祟りとして恐れられた。近世においても治水の面から河川の付け替えなどの取り組みは行われたが、安全が本格的に取り上げられるのは、国家が大災害に対して積極的にコミットすることになる近代以降のことである。治水に関しては、陸上交通が本格化し、舟運が衰え始めてからであることの指摘に頷く。

ここでは、「日本災害史」の最後になる現代の部分、阪神・淡路大震災(中元孝迪)「復興への模索」を抜粋しながら、紹介する。

「復興検証」
2005年1月「復興十年委員会」が復興状況を検証、発表した。
委員会が成果としてあげているのは次の通り。
①従来の枠組みを超えた新たな制度や仕組みをつくった(家屋の公費による解体、生活再建支援金制度の創設、災害救援専門ボランティア制度の創設など)
②既存制度の特例運用に道を開いた(16本の特別立法による減税などの税の特例措置、災害公営住宅の大量供給、災害復旧の特例融資、雇用保険での生活支援特例など)
③震災を教訓に先導的政策を実現した(共同居住など新しい住まいの提案・提供、防災教育の展開、高規格道路網など多重総合交通体系の整備、神戸東部新都心での防災やWHOなど国際機関の集積)
成果のほか、復興のための制度的・財政的保障の不備や被災高齢者の自立支援対応不足などの課題についても言及している。倒壊した高速道路の地中化など、新しい都市道路のあり方についても提言があったが、生かされなかったとのコメントも述べられている。
空前のボランティア活動をつなぎ、纏め上げ、新しいシステムに発展させるきっかけを作ったこと、住まいの重要性を浮き彫りにしたことなど評価すべきことは多い。都市の装置、ハードな復興という建築土木関連復興などは、予想を超える速さで進んだ。
復興、復活を祈る光の祭典「ルミナリエ」が開催され、歳末行事として多くの人を集めた。観光イベントになるのか、祈りの祭りとして定着するのか、今後の課題でもある。

「厳しい復興批判」
復興手法に対する批判は、震災以前から続く、神戸市の都市政策をめぐる批判に端を発している。
山を削り海を埋め立て、造成地を売り出す―これが、神戸市の取り続けた都市経営手法であった。公共デベロッパーとしての手法は、高度成長期からバブル期に至り、それなりの成果は上げたが、当初から環境問題、土地神話への欲求などといった側面から強く批判もされていた。インナーシティ問題への取り組みを遅らせた。
震災後、神戸市がとった復興手法は、従来からの「開発優先型」の印象は免れなかった。「神戸黒書」(市民がつくる神戸市白書委員会)は、避難所や仮設住宅で多くの被災者が暮らす中で、なぜ、神戸空港建設促進を打ち出すのか、と厳しい批判を展開した。
一方、膨大な復旧・復興経費の使用目的別配分についても、さまざまな批判が起きた。
国、県、市の予算の大まかな傾向から、生活関連より、インフラなどの復旧に数倍の投資が行われた。復興過程において、家を失い、健康をも失った相当数の被災者から発せられた暮らし無視という異議と軌を一にするデータ(10兆円の被害に対して投じられた16兆3千億円を分析した池田清「被災地は再生したか」世界2005年2月号)がある。

「人間の復興・減災への挑戦」
生活復興か、開発復興か。復興過程で絶えず発せられた厳しい問い掛けであった。
また憲法を被災地に生かす試みとして、「生存権」がクローズアップされ、この理念を描いた政府や自治体の憲法感覚が人間復興を遅らせたとの指摘も出た。
道路など都市インフラ復旧・復興に対する公的資金による集中的投資は行われたが、生活復旧・復興への公的支援は、殆ど考慮されたフシがない。
個人財産への公的支援は認められないという、国の基本原則を厳格に解釈したためである。
しかし既存の「災害救助法」の運用次第では、個人への公的資金の投入が可能であるとの指摘は、当初から法律専門家の中で多くあった。積極的な法解釈が問われたのだ。
被災地で日増しに強まった「公的支援を」の声に、1998年5月「被災者支援法」が成立した。所得や年齢制限などが厳しく規定され、支給対象は被災者の31%に過ぎず、国際的には少ないが、それでも「個人補償はしない」という国の姿勢を変えた意義は大きい。
個人補償を国際水準まで引き上げるといった支援の思想が広まれば「人間の復興」も、実現できる。
個人補償は、防災の観点から見ても重要である。事前補償になるかもしれないが、ここの家屋被害を減らすことによって、多くの人の命を救うと同時に社会的損失を大幅に減少させることも可能である。
阪神・淡路大震災以降、急速に広がりを見せたテーマに「減災の思想」がある。来るべき震災に備えて被害を少しでも減らすための試みと新しいシステムを確立すべきだというものである。

最終項の「阪神の歴史的位相」で、震災から2年過ぎた神戸で行われた約20人のEUのジャーナリストとの会議で、神戸新聞の社説が取り上げた彼らが驚いた事柄を記している。
一街並みや道路が見事に復興していること。仏記者は「わが国では10年かかる」といった。
二それまでの復興に4兆円が集中投下されたこと。その巨額さに圧倒された。
三その時点で3万近い仮設住宅が残り、多数の被災者が厳しい生活を続けていることと、被災者の生活が好転していないこと。その事実に、彼らは一斉に「ノー」と首を振った。
四復興過程で被災地域の首長たちが何百回と上京し復興陳情を繰り返したこと。八割五分自治といわれるデンマークなどは、三割自治の日本が理解できなかった。
これらは、復興の裏と表、光と影の乖離が大きすぎることと、被災地域独自の政策で復興が進まなかったことへの驚きだろう。
それが集権国家と分権国家の違いであろう。集権国家では表の「見えるところ」に、分権国家では裏の「見えないところ」に先ず光を当てる。被災者の、そんな一般感情を踏まえて、社説はそう結論付けた。
復興陳情は、日本の財政運営の、ある種のいびつさを物語る結果となった。霞ヶ関の手加減が、地方の生命線を左右するという構図は、明治以来続いてきた集権システムが作り上げてきたものである。
震災は、分権未成熟の日本の実情をあぶり出したといえる。
また一方で、いわゆる成熟都市における問題点も表面化した。高齢化の進展、インナーシティの衰退、都市内の地域格差、コミュニティの脆弱さなどである。極端な被害格差や「まだら模様」の復興格差は、こうした都市の矛盾が震災で浮き彫りにされた結果である。
「自力復興」が声高に叫ばれたことに、バブル崩壊後のグローバル化に伴う経済合理主義の影を読み取ることができる。勝者と敗者という、峻別の感情が現れた結果といってもいい。人も企業も自立するものが勝者で、他は敗者になる。ボランティアなどの努力で、この容赦ない世相が、少なからず和らいだのが救いである。
災害は、時代そのものをあぶり出す。阪神・淡路大震災では、集権システムや都市の矛盾、経済環境・・。日本のおかれた歴史的位相が、くっきりと浮かび上がった。
そして、結語である。
災害に立ち向かい、復興を実のあるものにするには、こうした時代の矛盾や不合理な状況を直視し、克服しなければならないことを、阪神・淡路大震災は語りかけている。そして、復旧・復興には、何よりも人間の心を癒す暖かいまなざしを忘れてはならないことも告げている。

最後の文字に出会ったとき、丁度干支が一回りした1月17日にここで紹介したいと感じた。
文字を写していって、この10年余の間で生じた経済状況の変化、世相の変化を思い浮かべながら、わが身を、そして阪神地域を思い、身がすくむようだった。


情報公開の意義 8 [震災の風景]

情報公開の意義 8
今求められる情報の共有

前回までが、阪神大震災後に書いた情報公開に関連するノートである。
その後、2001年に行政のアカウンタビリティを義務づける情報公開法が施行された。
それに基づき、地方自治体で関連条例が作られた。
しかしそこで重視されたものは、非公開の規定であり、残念ながらその多くは、以前の価値観を踏襲したものでしかなかった。その結果は例えば、プライバシー保護の名のもとでなされた資料請求者への黒塗りの情報提示であった。各所でオンブズマンは頑張っているが、ハードルは高い。
今日現在、住民票の登録を個人の意思に任せた杉並区と国立市在住者は、パスポート入手の際、住民票の提示が必要とされている。今回の国勢調査で、プライバシーに関わるということで、調査を断る人が増大したという。コンサルタントの調査で個人情報に係る部分の把握について難しさが増している。

計画立案過程の不透明さは、いつまで続くのだろう。
造ることが優先された時代にそのチェックとして現れたリスク・アセスメント=危機の予測評価、安定期に問われた社会の維持に対応したリスク・マネージメント=危機管理、そして情報時代の到来に合わせて登場したリスク・コミュニケーション=危機情報の双方向化、或いは危機情報の共有といった環境分野から提示された一連の流れは、情報のありよう、責任のありようの変遷を示しているようにも思う。

ツールが整備されつつある情報社会にあって、行政を初めとするホームページは整いだし、ネット上でのパブリック・コメントは日常のものになりだしている。
しかし一方で、ホームページに掲載すれば、それらの情報を知らない方に落ち度があるといわんばかりの勢いも感じる。
先日、近くの公園内の施設で実施されている指定管理者との契約内容に関して質問したところ、応募の際にホームページに掲載したという返答が、担当から戻ってきた。彼は、公共とは何か、誰のための行政かを理解できず、顔は住民からそっぽを向いていた。

社会資本である情報は重要な役割をもつ。
ましてや公共の受け皿がないままに、行政が担っていた事務が規制緩和の名のもとで外され、一挙に、市場の中で問われた自己責任という言葉が平然と流通する時代において、一方向の情報公開から、行政と住民が対等の立場に立つための情報の共有が求められるのだろう。

粉飾決算という、投資家に対する誤った情報提供のもとで市場を混乱させたという理由で、ライブドアが問われた。

説明責任という言葉が独り歩きを始め、危機管理の乏しさから、メール事件でそれを果たせなかった野党第一党が、詫び状をマスコミに掲載し、萎縮している。方や、権力の座を占めた政権の居直りに近い言いっ放しを許していながらである。
そのため、米軍支援に対する密約の文書が明らかにされても、追求できずにいる。その一方で、岩国では住民投票で基地拡張はノーの判断が表明された。

構造偽装事件で、民間確認機関に提出された図書等の一部が、特定行政庁に提供されて済まされるということが部外者にも分かってきた。
大規模な建築が建設される場合、民間確認機関が確認した場合、その内容は多くの場合公開されず、住民の反発が生じる原因をなしている。
しかも確認したことの最終責任は、確認を下ろした民間にはなく、概要書が提出されるだけの特定行政庁にあるというのが最高裁の判断である。そこでも、情報公開すべき内容の質、情報提供者の責任の所在がおざなりにされている。

何ら権利を有していそうにない人々が追う自己責任と引き換えに進められている規制緩和のもとで、その人たちが自分を守るための情報の役割は増大している。
発信者がこれでよしとする情報提供ではなく、受け手が必要とする情報公開は、住民が自分たちの選択に通じていくための条件である。

3月14日の読売新聞記者に対する東京地裁と、17日のNHK 記者に対する東京高裁で、取材源秘匿に対して逆の判決が下された。
永田メール問題で、取材源秘匿は脚光を浴びたが、偽情報をつかまされた彼の場合は問題外として、取材の基本部分に当たるものであり、知る権利のために守るべき情報非公開もあることを、教えてくれる。


情報公開の意義 7 [震災の風景]

情報公開の意義 7
引越し先 http://blog.livedoor.jp/haotakaban/へのアクセスが少なさそうなこと、及びここで記録を保存しておきたいことのため、時間がたった記事をこちらに順次掲載することにします。
取り敢えず、前回の続きからです。

6.環境面に焦点を当てたときの情報公開の範囲と質
環境への配慮は、震災後どのようにないがしろにされたか。そして、現在の地球環境時代において、復旧時の対応や、復興計画において環境という言葉を背後に追いやることにしたことについての合意形成は如何にして可能であったか。

本当に食うことが先だというほど、現在日本は疲弊しているだろうか。
環境の議論を後回しにすることによって、何か、それを捨て去ることに見合う迅速な対応が具体的になされたのだろうか。
役所の中で練られている復興計画を、その都度オープンにすることでどこに支障が生じるのだろうか。
復興事業を担うのは業者ではなく、市民であると認識し、それが長期を要する事業であると理解した場合、事前に合意形成のための環境アセスメントを行う期間は果たして事業を延ばすほどのものなのだろうか。

震災復興の名のもとで選択された環境認識の中に、これまで水俣を始めとする公害で被害者が扱われたと同様、被害者は多少のことは我慢せいといった、あいも変わらぬ我が国の弱者軽視の意識に通じるものがあるように思う。
何が贅沢かを問うことなく贅沢は敵だと言ってしまった時代と同様、弱者にはその社会的な地位における権利しかないといった他人を卑しめる性癖がどうもその判断の根底にあり、合意形成が直接の関係者を中心に図られるのではなく、全てが曖昧となる国民に委ねられる上部構造にあるような気がしてならない。
地球環境問題が、加害者である我が国で自分自身の問題としてなかなか位置付けられない理由と同様である。

さて、環境アセスメントはある計画又は事業が影響を及ぼす環境面についての合意形成を目的としているが、その基本にあるのは情報の共有と意思決定であると考えている。
現行の制度が致命的な欠陥を有するのは、固定された計画案の評価に限定されているために、代替案を持つ必要がないという点にあり、評価の結果をフィードバックさせる重要な選択肢を持たないことに起因する。
これは制度論であるから、今回の緊急課題では議論を避けざるを得ないが、震災復興に当たり環境アセスを行わないこと、即ち将来の住民の環境権についての合意形成のステップを踏まないことに関して、或いは一歩踏み込んで代替の措置について、この際吟味しておくことは必要であろう。

現行の制度の今一つの大きな欠陥は、公開される情報が限定されている点にある。それは計画ないし事業による環境影響を、総合性においてではなく、限定的な分解された要素で評価することを許したことに起因する。それは現在の環境行政の限界であるかも知れないが、この震災からの都市の復興という全体性が問われている時点で、阪神の復興に関しては、環境の総合性を議論することが有効であるように思われる。

43号問題についての私論は小論(「震災復興を通した43号問題の解決に向けて」環境情報科学24-1)で触れたが、この問題について、せめて関係者から成る沿道整備協議会の開催と、住民の意向の把握、及びその決定に至る一連の情報公開は必要である。
環境が後回しになることは、生命に直接関係しない項目を取り上げようとしない我が国の贅沢な環境認識からは当然の結果である。しかし小論(「阪神・淡路大震災の検証の視点」環境情報科学24-2)で触れたように、地球環境時代に生きる我々は恐らく、精神に至る人間の尊厳についての議論を踏まえなければならないのではなかろうか。

復興時における環境全般の監視、管理は、平生の法で定義する環境要素にとどまってはならない。化学工場等の火災地区での土壌汚染、廃棄物の野焼きやビルの取り壊しに伴う大気汚染、アスベスト飛散、トイレからのたれ流しや下水処理上の破損による水質の悪化、医療の不備、プライバシーの無い避難所生活の許容、高速道路復旧の余りに早い認可等、反省を込めて、客観的な情報を収集し、それを明らかにしておくべきこと、即ち、環境面での情報の公開の必要性もまた大きい。


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