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私にとっての都市11(計画のプロセス) [私にとっての都市]

私にとっての都市11

③プラニングプロセスとプロセスプラニング

プラニングプロセスと、プロセスプラニングは、どのような差があるのだろうか。
プラニングプロセスの変化は、時代背景を反映しており、60年代の全体の整合性を目途した上意下達による予定調和型の意思決定システムから、80年代の地区計画等の導入に見られる住民合意の必要性の仕組みを経て、00年代の地方分権下の都市マスやまちづくり条例にもとづく住民参加による意思決定システムへの移行として捉えられるように思われる。

社会の要求から判断して、その動きは不可逆である。
プロセスという以上、ある決定段階から、元に戻ることはない。

そのため、全体の設計(プラニングプロセス)の元での、きめ細かな対応と軌道修正を内部化すること(プロセスプラニング)を必要としている。住民参加による計画づくりを主軸に置いたシステム化である。
それが、都市全体を眺めて、成長管理を目指す都市計画に適っているかどうかは別であるが、住民の意思決定を中心にすえることを通して、投げ掛ける問そのものを変えるというところまでいく可能性はある。
住民の手が届く範囲では、行政の負託、議会制民主主義のもとで、直接民主主義的な過程を避けて通れなくなっている。

最近出会った条例の専門家や、優秀なファシリテーターを見ると、彼らは、一般解として住民参加を把え、答えを導き出す一定の戦略を講じようとしている。
その方法は、多様に広がる議論を収束させるために論点整理を画期におく学者も同様である。参加した人たちが、現在どの段階にあるのかを共有しながら議論していく方法である。

この同意のプロセスの一般解が、プロセスプラニングの重要な点である。
対象に対する様々な意見の洗い出し→現場でのワークショップ→論点の明確化→意見の集約→デザイン→代替案に関するワークショップ→案の決定といったプロセスを踏んで合意形成を図る。
参加者が意見を出し合うことを保障し、各段階で決まったことを明確にして、合意を繰り返す。

適正な計画を得るために編み出されたプラニングプロセスにもとづく計画論は、答を得るための全体の手順を枠組みとするものであり、そのプロセスの中に住民との合意形成が仕組まれる。
この方法は、自立的であり、客観的に説明される。

それに対して、住民参加とともに育ってきたプロセスプラニングによる計画論は、手順の設計であり、住民との合意形成が答を生み出すこととしているため、答は予定的ではない。
この考え方は、参加型社会の定着とともに今後深化していくだろうが、広範囲に影響を及ぼし、代表性を必要とする行政計画にはなかなかなじまないし、答の専門性も問われる。

しかし両者は、例えば計画そのものに対する否定は、条件に合わせて代替案で処理しようとするプラニングプロセスに従うと難しいが、住民の意思決定をその都度の答としていくプロセスプラニングに従うと可能になるというほどに違う。
意思決定過程の主客が反転するために、このような差が生じるのである。

練馬の地域別指針で、住民参加を形として表現するため、懇談会が作成したカルテをそのまま載せた。
また、指針に対する区と懇談会の協議結果を配慮点として取り上げた。
試行の結果を、循環させながら、計画として表現することが、取り敢えずの私の答えである。


私にとっての都市10(計画のプロセス) [私にとっての都市]

私にとっての都市10

(2)プロセスプラニング

以上の議論を背景に、プロセスプラニングについて的を絞り、展開してみる。先ずプラニングプロセスとの対比から始める必要がある。

①プロセスプラニングの今日的な意味

私にとってのプラニングプロセスからプロセスプラニングへの変化の切っ掛けは、弁証法から複雑系への論理の変更を意味していた。
テーゼ→アンチテーゼ→ジンテーゼという確実性を保持した弁証法の流れと複雑系の不確実性を持った流れとを対比してみる。
弁証法の流れ = 現状⇔内部矛盾の発生(相互の対立)→対立の止揚⇔次の段階
複雑系の流れ = 現状=混沌→負のフィードバック→自己創出(組織化)⇔次の段階
は、明らかに違う。

弁証法は、現状の打破を二項対立の構造の中で捉えているのに対して、複雑系ではフィードバックし続ける混沌から、何かが突き抜けて、次の形を作るという流れで捉えている。弁証法の流れは、たとえ既成の秩序の逆転を内包していたとしても、トップダウン型の管理的な発想に通じるが、複雑系の流れはボトムアップ型の自由の発想を誘発するため、住民参加に対抗できる。

プラニングプロセスは、矛盾だらけの現状→問題や課題の解決→将来像という流れのシステム化であり、弁証法による解答である。
現実には事業手法の限定から将来像が規定されるという構造を持ち、むしろ将来像の設定→課題の抽出→解決可能な問題→事業手法の適用といった思考回路を経て、上記の説明可能な流れを制度化したということが可能かもしれない。
そのため、将来像に行き着く前に立ちはだかる壁を破るために、計画や事業手法を制度化して、辻褄をあわせようとしてきた。
そのつぎはぎだらけの考え方が都市計画を覆っているように見える。

今の時代、都市をコントロールするという管理的方法と、都市の変化を自由に任せるという特区的な規制緩和の方法のどちらが合っているのだろう。
問題は、成長すべきところは成長させるとしても、制御すべきところは管理するという成長管理(スマートグロース)の発想が欠落し、全てに期性緩和が行き渡る結果を招くことにある。
それは、地価が容積で決まり、良好な住宅地よりも、高度利用可能な土地の方が、資産価値が高いという価値観に起因する。

都市計画は全体を見渡そうとするが、まちづくりは、地区で発生する。
言い換えれば、如何に計画を面(全体)で抑えようとしても、実際の変化は点(部分)から生じ、全体に影響を及ぼすのだ。
それに対抗できるのはまちづくり条例なのだろうか。
対象を解き、既定の手法のもとで再構成させようとするプロセスプラニングは、そこを救えるだろうか。

②プロセスプラニングによる一般解への接近

近年台頭したファシリテーターに対する計画上の位置付けを必要とし、住民の意思を引き出し、行政との合意を導き出すプロセスプラニングを提起したのだと思い当たる。

そしてそのプロセスを、行政は、リスクコミュニケーションという新たな概念の中に取り入れ、政策に対するパブリックコメント、計画策定に対するパブリックインボルブメントといった、行政主導の場における住民参加の手法を定着させるに至った。
政策決定においても、住民参加を特殊解ではなく、一般解としてプロセスの中に入れたのである。
同時期に提起された戦略的アセスメントの大きな枠組の中での議論も、一役買っている。

この流れが、今日の趨勢であるように見える。

プラニングプロセスを大切に保持しつつ、各プロセスできめ細かに合意形成を導入していくことがプロセスプラニングであるということに言うことも可能でありそうに見えるが、どこか違う。
クライアントの依頼のもとで然るべき答えを導き出すコンサルタントは、その一時代前のプラニングプロセスの的確な試行者として、社会の中に位置する。
私は、出口論から入口論へのシフトだと、この変化を認識した。
行政は、課題克服のために、常に答を求め続けてきた。
契約上の縛りのために、コンサルタント業務は、予め答を限定される。解決策を伴った答=将来像から入る方法ではなく、住民合意のもとで、解決策を導き出すように現状の課題認識から入る方法である。
過去、環7で行ったような住民協議会方式で採用した、最終形のイメージから入り、住民の同意を得ていく方法ではなく、ワークショップを通じて住民の思いを共有し、将来の姿を形にすることが、その変化の中にあった。

たとえ正解だと思われても、誰か特定に人の思いの実現を優先する特殊解ではなく、一般解で解くとは、途中の段階を含めて、参加者のポテンシャルを引き出し、誰でもが納得する方法論を持つということだろう。
それが透明性なのだろう。

それぞれのプロセスでの結論を、本来到達すべき成果からの対比でみるのではなく、彼ら住民の成果にすることなのだ。


私にとっての都市9(計画のプロセス) [私にとっての都市]

私にとっての都市9

4 プラニングプロセスとプロセスプラニング、或いは出口論と入口論について‘04

これまで、計画をつくるプロセスは様々に提起され、システムとして制度化されてきた。しかし、混沌の中から、主体の当該のことに対する思い(目的)は違っても、目標像は合意しなければ物事は進まないという状況が、至るところで生じている。
参加型社会における計画づくりのプロセスを考えていくことが、ここで整理する課題である。

(1)入口からの計画は成立するか

今まで私はコンサルタントという職能で、発注者である行政の求める着地からの予定的な計画をし続けてきたが、消費社会の進展、財政縮小に伴う供給型社会の変節下で、入口からの計画が成立するかどうかを考える必要がある社会状況が周囲を覆い始めた。
これまで行政民主主義下で主流を占めてきた供給型の論理は既に危くなっており、需要型の論理に切り替えていくことが要求されている。

①計画は出口を設定する

相談があった時、現在のシステム上で瞬時に出口となる答を出すことは、プロにとってそれほど難しいことではない。しかし出口から組み立てる方法は、供給型社会の発想である。その社会のシステムが、配れるパイを失う財政縮小のもとで崩れ始めており、今までプロといわれてきた人達の出す答が正解であるとは限らなくなっていることが、分かり始めた。

むしろ、ユーザーが必要とする相談、即ち入口にこそ新たな商品の芽生えがあり、出口を様々に用意し、ユーザーの選択に委ねることが、これからプランナーの重要な役割になるのだろう。
ユーザーの求めに応じて、答を導き出していくコーディネーターに近い役割も持つということである。或いは、ユーザーの思いを確認し、最終的にユーザー自身の意思の表出を助けていくファシリテーターの役回りも求められる。

しかし、都市計画等の、法制度をもとにしたテーマでは、着地が限られるため、入口からのプロセスを求めている人達に、出口を始めに用意してしまう危険性を、プロは持ち続ける。

宮脇檀のコモンの設計に目を通す。官民の中間領域として存在というよりも、私・個人の領域の延長上に位置する社会性であるコモンという発想は、建築からの都市への発言である。

パブリックという概念ではなく、コモンというやさしい概念だったことに気がつく。
さて、パブリックに対するのはプライベートである。公共と私である。コモンに対するのは、インディビデュアルである。公と個人である。その対語の意味合いは重要である。

②参加型社会で求められる計画論

当面の決着として、入口論からの計画はどうあるのかは考えておくことが必要だろう。

阪神大震災の時に、常識の都市計画として、被災地を一顧だにせずに作られた計画論について、予定的な事業から入ることの空虚さを既存の都市計画手法の限界として感じた。当時、それぞれの都市が持つ大本のイメージ、記憶を有する原風景から溢れ出す言語を語り、コミュニティを、都市を再構築する必要があった。
それは官による強権発動が、生活者の希求と乖離していることから来たのだろう。
しかしその視点は神戸の復興という特殊な課題に対するものであり、個別の地区や敷地での風景を描くことの計画論になり得ても、個人の政治の場への登場や、計画におけるプロセスの重視や評価、アカウンタビリティ等、今日の社会が求めている都市の計画論にはなっていなかった。

参加型社会での計画論は、制度との整合性を重視する出口からの組み立てを止め、入口から、一段ずつを確認し、合意していく方法論の構築を必要とする。
意思決定者は、計画に対してアマチュアである関係権利者であり、彼らに対して、計画者が意図をもって出す計画案ではなく、住民が最終的に権利と責任を負う様々な着地を許す、対話型・協議型のもとで様々な代替案が要求されるものとなろう。
その過程から得られた答が適切であるとは限らないとしても、負担する側、即ち納税者の意思決定に従う必要がある。

そのとき、計画者は、意思決定のための素材を提供する脇役になっていく立場であること、計画の説明者であることを明瞭にする必要がある。
それは、事務事業評価と密接な関係を持ち、結果に対する責任を持つ循環型のシステムになり出していることを物語る。

③入口も出口も様々にある社会の計画は可能か

多様性が求められる時代、答は一つではなく、入口だけでなく、出口もいくつかあるといった発想が必要であり、また可能になっている。その時の方法はどのようなものだろう。

プロセスプラニングは、混沌の状況に対して、どこか中心性に向かう負のフィードバックを起こさせる仕組みである。
その時生じる中心性を、外部からではなく、内部の動きに委ねるという方法である。
そのためこの方法では、答は予定的ではなく、混沌の中から出た答えを認め、必要に応じて自己組織化する過程を支援する仕組みを作っていくことが、問われる。

仮にこの入口から始まり、意思決定を住民に委ねる方法論を採用すれば、当初は想定されなかった様々な出口を認め、出口のイメージを豊かにしていくことが計画論になる。
この方法では、用意される代替案ではなく、実際のまちづくりの過程で様々なメニューを持つ計画を同時平行的に描き続ける必要が生じる。
予め到達すべき地点を設け、社会のあり様を描くといった方法ではない。
到達点を社会的倫理=正義で括るという考え方は、安易であった。

情報の仕組みが全く変化する社会において、意思決定も当然に変化するのだ。

行政の守備範囲を考える際、従来のシビルミニマムの領域を見直し、行政と住民の分担を明確にしていく必要があるという出口設定が行政の論理である。
それに対して、市民生活に深く関与するシビルミニマムを求め、そのために必要な分担について線引きをし直そうという入口からの計画を主張するのが住民の論理であり、その領域は行政が設定するのとは異なった公の次元である。


私にとっての都市8(参加型社会での計画) [私にとっての都市]

(3)消費社会における変質

近年、都心回帰の一方で、旧来の中心市街地の空洞化とともに、高度経済成長期に急速にスプロールが広がった大都市近郊の荒廃も話題になりつつある。
車社会による都市の密度、そして人口の減少が関係しているから、双方を同時に解決することはおそらくできない。

供給者の論理は、消費者の嗜好で経済の不安定性が高まる可能性がある消費社会において、遠からず成立しなくなるだろうことを予感させる。

大都市では、特にスプロールを受けた地域において、まちができた時代毎のパッチ模様を地図上に残している。ここ四半世紀くらいは新しい商店街はできていない。
規制緩和のもとで、24時間営業のコンビニを窓口にして、行政・金融・宅配・在宅介護等、立派に公的な分野を担っている多様なサービスが地域の中に準備される。
規制緩和の行き過ぎは公共を希薄にするが、公共を携えた民間の活動は歓迎である。
それは新たなまちづくり産業である。

介護保険を契機に、福祉における民間の参入の機会が広がり、さらに官民の境界は曖昧になっていくだろう。
例えば、福祉NPOの紹介で、症状に応じた医師との相談ができ、看護婦が派遣されるような、民間による公的なサービスが、システム的にできあがるだろう。
NPOの公性が社会的に認知されていくことにより、いずれ、NPOに関する基金は必要経費として認められていくだろう。
税金・保険を払う対象が変化していくのである。

このように民間が担うことによって公のサービス水準が高まることになり、参加型社会、公への参加が住民によってなされる社会の姿は一つではないということが明らかになっていく。

ユーザー側が社会の主役になることの意味が、徐々に明らかになっていくのだろう。
今まで都市の供給の源であった行政権限の縮小は、人口減少と、財政悪化によってもたらされることになるから、これからの意思決定のあり様は、今までとは異なることになる。

(4)共有されるもの

都市において、住み続けることを掲げた場合、その条件は、市街地の様相を整えた良いまちである必要はなく、多様な人の嗜好を満たしてくれる住民が好きなまちであってもよい。
都市は集まって住む器に過ぎないから、形態のあり方は共有されるべき条件であっても、目的にはなり得ないのだ。

行政の持ち物だから公共施設であったとした時代、社寺を公共から遠ざけ、祭を私的な位置づけにおとしめた。
また公害と呼ばれたように、国民にとっては、民間企業や車がもたらす環境の悪化に対して、公の責任下でコントロールすべきものとして受け止められた。
しかし今、指定管理者制度が進展しつつあり、多くの公共サービスは民間が受け持つことに抵抗がなくなっている。
地域を意識させる祭にしろ、エコビジネスが生まれつつある環境にしろ、逆転現象が起こりつつある。

参加型社会で準備される民主主義は、現在我が国で定着している行政民主主義ではなく、主権者である住民が生きることにとって不都合のない形を持つ必要がある。

行政が都市計画を占有してしまったために、事業はあるまちつくるためのツールに過ぎないことを忘れていたのかもしれない。
阪神淡路地域の復興における一つの悲劇はそこにあった。

参加型社会を念頭に置いた都市の計画において、これからは将来の目標に達するための事業や制度を語るではなく、現在それぞれのまちに住んでいる人々の手に届く方法を共通の手段とし、生活のあり様を語ることが必要となろう。

計画は、ある目的を達成するための規定性ではなく、生活のあり様を支援するものとなり、スタートを示すものに変わっていく必要がある。
使われることによって深化し、時にしたがって変化し、場面に応じて柔軟性に富むことがそこで求められるものとなる。

その時にある計画とは、皆がスタートラインに立つ共通の言語である筈であり、向かうべき目標像ではない。
むしろ、多様な価値観に対して答えを得ていくプロセス設計が重要となろう。
さらには、好きな都市を選ぶこと、足の選挙まで射程に入っていこう。

都市計画決定されていることすら、今や合意のために提示される一つの条件でしかなく、社会的に既得権としては認められなくなりつつある。
現在以上のサービスを住民が求めない場合、従来型の発想である受益の論理では答が出ない。
産業社会から消費社会において、需要側の論理が無視し得なくなり、人々が求めている豊かさの質が変わりつつある。
情報の加速度的展開に伴い、必要性は、無前提に成立する価値観では無くなった。

都市計画の用途地域図で示されている色は、その土地の既得権ではなく、制約条件である。
大規模建築であれば一層、周辺への影響を考慮し、公共空間を提供する義務があり、宅開指導を緩めることは、理に反する。
建築基準法は、国立市で争点になったように、全てを満たしたからといって、その地で必要とされている景観への要請を満足している分けではない。

そのことは、その土地の利用は他者のためにも提供されなければならないことを物語る。

これからの地区の計画は、法定の地区計画等や建築協定を超えて、自らの土地に対する宣言、或いはその集合体であるまちにおける宣言が、条例等によって認められ、計画として認定されていく可能性を示唆するものでもある。
その時、行政が作り出した既存制度の枠組の中で考える必要はなく、住民の発意を原則として、自由な、生活にまで踏み込んだ様々な計画のあり様が見えてくるように思う。
まちが自分達のものであるという認識を通して、都市計画制度の不自由性から脱却する方法論が生まれてくるのだ。

そのためには、共通の言語、社会的な価値観を持つことが必要であり、個人の所有権は、社会の所有の一部であることに移行することを合意できるか否かにかかっているようにも思う。

住民自治から発想する参加型社会は、行政のシステムだけではなく、これまで保護されてきた個人の権利の解体と再構築にも繋がっていく。
最近主張されている新しい公の発想や、兼業の思想は、個人が社会的に自らの領域を作り、自立するための準備である。
求められているサービスを理解した行政も変わるだろうが、消費者の個々のニーズに敏感な社会の方が、急テンポで変わっていく。
その社会の中に、個別の顔を持った人々が姿を現してくるのだろう。


私にとっての都市7(参加型社会での計画) [私にとっての都市]

3参加型社会における都市の計画のあり様 ‘01

今日進行中である参加型社会で、行政が必ずしも主導権をとる立場でなくなった時、まちづくり行政にとって重要な自治事務の一つとして残る都市の計画は成り立つのだろうか。
68年に都市計画法ができて30年強、80年に住民参加を標榜した地区計画が導入されて20年、地方分権を射程に入れつつ、92年に都市計画マスタープランが制定されて10年、住民参加を掲げた市町村のまちづくり条例化も進み、近々住民による都市計画提案制度もできることになった。
制度が着々と整えられている今日、参加型の都市はどのようなイメージで語られるのだろうか。

(1)背後にある主役の認識

参加型社会の主役は、政治の場を選択した住民であり、いずれは住民による意思決定を条件とした仕組みを、都市の計画の中で準備することが必要になる。
パートナーシップのもとで、住民も権利と同時に責任を受け持つのであるから、これまでの行政の決定システムだけではなく、住民も対等な条件で意思決定するシステムを用意することが必要となる。

今に通じる都市計画法ができたのは戦後20年以上経った時であり、我が国の民主主義は、行政主導型に変容を遂げつつあった時である。
当時革新自治体の動きもあり、地方を意識していた時代に制度化されたことは、その枠組が時代とともに次第に変化し、地方自治と住民参加を重要な位置に据えてくる条件をスタートで備えていたと言ってよい。
住民参加の必要性を明確にした地区計画は一度目の画期であり、二度目の画期である市町村マスタープランは、地方自治と計画への住民参加の可能性を広げた。住民による都市計画提案制度が三度目の画期である。

次の段階である住民によるまちづくりの自治に至るとすれば、地方自治による差異の選択による。
都市の計画及び管理において、公の部分を担うのは、行政と住民の双方となる。まちづくりにおいて、行政と住民の協働の範疇から、住民の自立の範疇を入れることも必要となる。

そのことについては、幹線道路に対する判決、吉野川の住民投票の結果両者から提示された、国による公共の福祉の限界に対する現行制度の見直しにも萌芽が見える。

地方自治法の改正後、住民と行政の対等な関係のもとで、新たなシビルミニマムをどのように確保するかが問われる。
今まで、間接的な民主主義のもとで、権利とともに責任を置き去りにされてきた住民が、双方を直接的に担う仕組みを考え出すことが、必要となってきた。

まちづくりに対して、様々なアクセスに対応できる情報公開のもとでの住民参加や人・物・金の支援措置を用意するなど開かれた装置を持ち、行政の外部に住民の監査であるオンブズマン制度、直接参加に通じる住民投票条例等を設けておくことが必要である所以である。

(2)都市の課題の変質

都市の形成も、破壊も、敷地に与えられた権利の行使に起因している。
所有した敷地に対する自由裁量権とも言うべき感覚は、土地の価値に比例して強まった。近隣紛争は、コミュニティの崩壊に起因する分けではなく、都市の形態に着目し、土地の活用を重んじた近代都市の計画論にも起因する。
また災害に対して脆弱な市街地は、従来のハードに依拠する防災の発想だけでは対応困難であり、減災のためにコミュニティが頼りであるとされている。

安全だけでなく、安全と安心という標語も生まれ始めている。

土地の機能を優先しようとする規制緩和の波は、襲い続けているが、成熟期において、都市のあるべき姿は、規制の中から生まれる。
現在ある魅力的な都市の多くは、それぞれの都市にある規則の上に作られている。
巨大化した都市では、スプロールによる無秩序な市街化の進行に対して、居住環境を守るために、成長管理の発想を必要としている。

良い都市が作られれば、人は移り住む。新市街地などの良いまちは、多くの場合、都市の理念の中から生まれてくる。
皮肉なことに、古くからのまちではコミュニティの危機が報じられ、新市街地にはコミュニティが形成され、様々なクラブやNPOが作り出される。

参加型の都市とは、住民が自分達で支える普通の都市である。
見えにくくなったまちのあり様が、住民の意思決定という切り口のもとで、もう一度姿を変えて現れ始めたのだ。

都市の望ましい形態を追い求めた我が国の近代都市計画は、地方分権を契機にして変容せざるを得ない。更新期を迎える都市において、更新を支えるコミュニティは、住民自治によってもたらされるから、行政が、住民に意思決定を委ねることを出発点とすることになろう。

そこで新たに問われるのは、形としての都市ではなく、集住の器としての都市となっていく。
制度はありきではなく、集住のあり方にとって必要な姿に姿を変える必要がある。
それはおそらく、ルールのようなものから始まるのだろう。
今まちづくり条例等を見ると、多様に実験段階に入りつつある住民参加のシステムは、この動きに対応しているように見える。


私にとっての都市6(計画の方法) [私にとっての都市]

(3)現れてくる都市

上で示した都市の計画方法の順序をざっとトレースしてみよう。

先ず住む人々とのイメージの共有のためにシンプルに描いた全体像をもとに、その都市の形を特徴づける計画として都市の構造・デザインを示し、次にその全体のデザインを枠組みとしながら、まちのディテールをできるだけあるがままに描写し、最後に都市を全きものとするために、補佐する必要があるまちのディテールを都市の計画としてまちの描写に似せて表現する。
このような表現で現れてくる都市の計画は、その都市を特徴づける都市の構造・デザインのみを枠組みとする、現在ある風景を補い、全体像に向かうイメージの積み重ねなのである。
様々な風景を全体として描く物語の一部として、都市の計画は表現されることになる。

この方法では、都市の様々な描写の結果得た計画を実現するために、様々な対応の方法や個別の手法が提示されることになる。全体で一つの塊になってゆく計画要素の実現方法は、まちに住み、様々な意識でまちづくりを担う人々それぞれが何らかの役割を持つように提示される。
共有された全体像のもとで、計画する、創りだす、大切にする、育ててゆくといった一連の行為が、同一の平面上に、まちの描写の中で現れ、住む意志を持った人々に提供される。

都市を表現する言語に普遍性や共通性があるとしても、そのためには、対象として与えられた都市やまちの持つ風景に帰属する言葉で表現することが重要であり、そのままディテールな描写にまで至るような流れが必要である。
都市は、始めから一の全体として現れる。重要な点は、履歴を有した都市が持つ全体像に対して、目標に向けて要素を変化させながら、都市の全体像の変化を計画することなのである。
その時、要素の総和として総合性を計画する方法から、要素を全体との関連のもとで解く方法に移行することができる。要素は全体に対して自己主張する独立的な姿から、柔らかな、全体に包み込まれる都市の条件となり、他の要素との関連のもとで姿を現すことになろう。

そのように人は都市の中で生活し、自分の居を構えているのだと思う。

(4)常識の都市計画との方法の差

この都市の描写による計画方法は、都市の歴史の一途上を計画し、都市の全体像を十全足らしめてゆくこと、方向に問題があれば軌道修正することを、目的においている。
この方法は、世田谷区の玉川地域で試みた都市マスタープランに忍び込ませるまちづくりのテーマを表現する場合や、一般の修復型の地区計画等を策定する場合の背景描写に向いている。
そのため、都市の履歴を消すような、市街地を改造する土地区画整理事業や大規模な市街地の再開発等の計画論とは根本から異なっている。また、老朽家屋を槍玉に上げ、その建替と住環境整備により都市の防災性の向上を狙う密集住宅市街地整備ともである。

例えば、被災地阪神の復興の姿という私自身に向けた課題のもとで、私が描写しようとした長田のまちは、過去の生活やコミュニティ、地場産業を引きずった、そのまちにもと住んでいた人々が住む意志を表現する新たな入れ物の姿だった。
この方法は、まちが固有の風景を持つことを条件にしており、計画の自由度が命である。地区まちづくりだけでなく、市町村マスタープランでも、相性が悪いというわけではない※。
※ 世田谷区の玉川地域整備方針では「地域の個性づくりの方針」、即ちまちづくりの展開として、坂のあるまちづくり、農のあるまとまり、優しいまちづくり、住環境・基盤整備まちづくり、環境との共生を目指すまちづくりが方針図の中に描かれている。
そのような方法で、要素を当為のもとで積み上げて求められてゆく総合型の計画と、要素は全体に帰属するものであるとして解かれてゆく計画の間で対立項を極小にしてゆくことによって、両者は棲み分けが可能になり、全体の方針の中で共通する図も現れてくるはずである。

補 今後必要となる都市を描写する言葉
‘80年に上梓された「見えがくれする都市」(鹿島出版会 槙文彦他著)を読む。改めて、都市を描写する上で必要な素養であり、把え方の掘り下げの重要さを感じた。
描写が人に感動を与えることは、対象に対する思いを共有できたことを意味するのだろう。
例えばこの書で、まちを見る際の観念として引き継ぐものは、恐らく、表と裏の概念からは日本の都市が説明できないという行き詰まりから発した「奥の思想」である。
また、表層という言葉で街並の分類の仕方を提示してくれた。
都市のひだの重層性から帰結される無数の奥という把え方は、まちに奥行きを与え、表と裏、或いは内と外の平板な区分を遥かに越える視点を持っていた。
私が描写しようとしてきたのは、恐らく多重なヒエラルキーのもとで成立するまちの奥であり、その奥性に守られながら生活している人々だったようにも思う。日本のまちに、外と内は確かにあるが、内側を囲う強固な外側の表皮はない。同じまちでも内側は均質ではなく、様々な姿を我々に現しており、小路一本入れば別なまちに迷い込むことも味わわせてくれる。
都市がその地方特有の多重なひだによって成立していると認識できれば、都市の特徴は、そのひだを表現することによって描写することができる筈である。そのひだがどのように構成されているかを言葉にできれば、安定した都市の描写に辿り着くことが可能だろう。


私にとっての都市5(計画の方法) [私にとっての都市]

(2)都市の計画の方法

③都市の要素の計画

次に、共通するイメージである全体像から、その全体像に至る豊かな計画の表現である全体の構造・デザインに置き換わった都市を、構成している要素にばらし、全体のデザインに沿って各要素を立体的に表現することになる。
※ 世田谷区の玉川地域では都市の構成要素を地図上にオーバーレイし、市街地整備方針の図柄とした。
その時に要素自体と要素の繋がりを通して描かれる、様々な都市の生活を写しだす物語への人々の共感が、重要な点である。
その場合の要素は、駅であり、道であり、公園・広場、川や海、社寺、教育・コミュニティ施設、商店街、家並み、空き地、農地、大きな木々等である。
そこに風景や季節の移り変わり、日常の生活といった人々の姿と時間の要素が加わることが重要である。描いた風景の中に時間や人の動きが感じられなければ、伝達されるイメージは生き生きとしてこない。
その際、住んでいる人達にとって日常見慣れた、何の変哲もないまちの要素が魅力ある風景として広がり、その物語を通じて息を吹き返すように組み立て直され、描かれることが必要である。自分のまちを紹介するとき、大通りから曲がり、家並みの描写が細かくなるのがその人が認識しているまちである。
そのような目を大切にし、読む人が、自分のまちを、描かれた物語の中から探し当てることができるように描写することが重要である。

ア.都市の要素の表現

都市の構造・デザインで示された枠組みに従って、都市の現在の要素をできるだけ的確に描写する。それは例えば自己紹介に似ている。

例えば、「まちはここ数年で大きく装いを変え、訪問者を戸惑わせる」「このまちには入口があり、その入口をくぐれば誰でもまちの一員になる」「百年もの間この地の移り変わりを見てきた大欅の根本は、昔から昼寝の場を提供してきた」「家が狭ければ、まちを借景にして、友人を出迎える」「坂道はまちに変化を与え、家並みを立体に変える」「晴れた日曜日、土手はゆったりとした時間を過ごす場になる」「あの横丁には猫が集まる広場があり、人々は思わず笑みを浮かべる」「狭い路地の住宅が、昔ながらの家並みを伝えてくれる」「道が狭くとも、バリアフリーの基本は、人々の少しずつの支援である」等々である。

何の変哲もない街角の、日常風景の羅列かも知れないが、このような心象に近い表現は、そのまちに住民にとって、共感を覚える風景の描写として受け止められるに違いない。その描写の中に、その地域で普遍性を持つ聖なる風景を求めることは自然である。
この描写は、都市の全体に対する都市の構造・デザインに示される各風景を構成する要素に対してなされる。そのため、常に全体的な枠を持つことになる。

イ.計画の表現

描写の方法は、都市の計画を表現する場合でも同様である。少しの言葉でいくつもの計画がイメージでき、またその計画の質も表現できる。

例えば「幹線的な道と生活の道をきちんと区別することは、まちに表側と内側を作ることである」「人が通りやすくなるように少し建物を下げるのは、商店街のエチケットである」「街並から遠ざかっている水の流れを、人の集いの中心に回復させる」「浸透性の舗装と、少しばかりの細工で素敵な道の空間を得ることができる」「生活の道は細長い広場であり、車は人に従って走り交差点では必ず止る」「街角には季節の花が植えられ、人々は立ち話しし、少し休みたい人にはベンチがある」「公園ではバーベキューが出来、月に一度はリサイクルセンターとなる」「公共施設は、環境と防災に配慮した部品の展示場である」「家並みを彩る生垣は壁面を少し道から遠ざけ、まちにゆとりを与える」等々である。

ここで描かれる計画は、要素の現状の描写と一体化することによって、一の都市の像を結ぶはずである。
この方法において計画は、現在ある都市をベースとして、都市の構造・デザインで表現した、対象とする都市の姿に至るための補佐的な役割を担う。
また描かれた計画は、その実現のために、同時に様々なまちづくりの方法を表現することになる。


私にとっての都市4(計画の方法) [私にとっての都市]

私にとっての都市4

2都市の計画の方法 ‘98

与えられた都市を描き、その中に物語を与え、それを計画に置き換えることが私の方法である。
阪神の震災復興の際に感じた、始めに当為ありきの常識の都市計画に対して反論するうえでも、私の都市の見方であり計画の方法に蓋然性を与えること、そしてその方法について、客観的態度から説明し、都市の表現においてその方法が適正かどうか検証しておくことが必要である。
尚、この方法は、時期的には、C.アレグザンダーの「パタン・ランゲージ」(鹿島出版会)を読んだ後に取り始めた方法であり、彼が提唱する全体を一とする把え方、パタン認識の言語化、風景の組み立て方に相当に影響されていると思う。

(1)都市の描写の方法
私に対して現れてくる都市は様々であるが、都市に内包される多様さをどう表現するかは、都市の歴史や現在住んでいる人々の生活が、私自身の視線に像を結ぶ仕方で決まる。
対象を解く方法を殆ど白紙にしたまま、どう自分が感得したかをベースにしながら与えられた都市を描写するといった方法論は、計画者の態度としては危うい方法かもしれない。
この個人の感得をベースにおく方法で描かれる風景は、都市全体を眺めているときに浮かぶイメージの描写であり、その都市の一場面の中に居る私自身の目に写る像の描写でもある。
実際に、与えられた都市を見つめ、描写を重ねてゆくと、自分の中で像を結んでしまうのだ。
しかしそのような偶然性に依拠しているようでは、相手に対して、そのように見えてしまう理由を説明することができず、私が得た像に対して全く説得力を持たないことも生じる。
そのため、これまで私がとってきた都市の計画の方法を一度客観化してみる必要がある。

(2)都市の計画の方法
私がこれまで都市、或いはまちを解いてきた方法を、できるだけ説明的に整理してみる。

①都市の全体像
都市を計画しようとする場合、対象とする都市の描写において重要なのは、都市を構成要素に分解することから始めるのではなく、先ずその都市において代表性を持つ要素を探り出し、探り出した要素をもとに全体像を表現し、その像を都市のイメージとして、自分の中で想定する他者と共有することから始めることである。
次に、その共有された全体像から、今度は、都市を構成する上で必要な要素を整理し直す。
この方法においては、都市は、始めに全体像を表現する共通言語として提示されるが、その場合代表とする要素は簡単なほどよい。
例えば「歴史が重なり合い、20世紀に今の姿を見せた都市」であり、また「坂のある都市」であり、「農の風景を持つ都市」「水辺と天空を見渡せる都市」「丘や川、鉄道などに囲いを持つ都市」「季節によって、或いは時間によって様々な姿を現す都市」のような表現である。或いは、その都市が持つ形の表現、「西を向き、袂を手繰り上げている仏様」でもよい。
ここでイメージを広げるには、その都市の生い立ち、即ち履歴が描かれていることが重要である。都市の履歴は、地形図の変遷で置き換えることもできる。
この都市の全体像に言葉を与える際に重要なことは、計画の目的が始めから与えられていても、できるだけ自由に、その都市から受けるイメージを浮かび上がらせることである。

②全体の構造・デザイン
都市を計画する場合に基本となる全体の構造・デザインは、都市が醸し出す全体的な風景の計画である。都市は一様ではなく、そのためいくつものデザイン要素で現される。
全体の構造は「市街地の地理と履歴」「地形地物による都市の境界」「都市を特徴づける地形、特に坂の存在」「骨格となる幹線的な道路の配置と機能、例えば連携軸、防波堤等」「都市の軸を補う自然としての川」「生活の中心となる鉄道駅や繁華街」「土地利用の粗密と特徴あるゾーン」「歴史から切り出される、隠された施設の配置」「様々な特性をもった地区やコミュニティ施設、緑の分布と相互の繋がり」「本来の風景と出会う幹線道路の背後地区」等の、その都市やまちを表現する、共有される大本の特性によって描かれる。
ここでは各特性は、独立してではなく、相互に織りなすように描写される。
この都市の全体の構造・デザインが、続く都市の要素の計画に対する枠組みとなるものであるが、都市の計画を進めてゆくに従って、明瞭な姿を持つようになる。


私にとっての都市3(常識の都市計画) [私にとっての都市]

私にとっての都市3

(3) 2年後の心象

平時の価値観にもとづいた手法が、緊急時の諸問題に対応できることは少ない。また過去に作られた制度を、そのまま適用すれば支障を生じ、ジレンマに陥る。
それは、例えば震災後の建築制限の期限であり、期限切れ間近に、行政から一方的に提出された、飛び飛びに配置された土地区画整理事業や市街地再開発事業の適用であった。
それらの我が国の都市行政における慣習、都市計画の実効性・時間に対する認識は、焼失し、壊滅した被災地にはそぐわず、コンサルタント役を担った大学人も承服し難いものだった。
復興時の都市の計画において、重要なのはその現地から考えることであり、必要な策はその現地で探すことであるといった、実に簡単なことだったのではないかと感じた。復興の結果を自分達のものにするのは、被災者自身に全てを還元してゆくような計画論を持つべきだったのだ。要は手法ではなく、被災者のやる気を如何に引き出すかだったのだ。
長田夏の家を手伝っていたとき、それまで何かもやもやしていた都市の計画への引っ掛かりがとれ、霞ヶ関が作りだした様々な制度の知識、関与に対して、振っ切れたように感じた。
阪神では、あるがままの都市の風景をベースとし、住む人々を思い浮かべながら、彼等が住まうことを条件として、都市の姿を発想することこそが必要であった。

この2年の間に出された都市に係る法制度の殆どが、阪神大震災の結果を意識したものであったし、復興の名を借りて、自分達の土俵を再度引き直そうとしていた。
私の関連するところでは、96年の沿道法の改正がある。当該制度の改正は、阪神大震災で倒壊した阪神高速道路の区間に対する95年の43号最高裁判決を強く意識している。
またそこに導入された施策は、区画整理事業に取って代わるソフトな、民間の権利移転に対して行政が関与する仕組み、即ち末端行政の不動産仲介業である。
しかしそれは、阪神後の2年間における特殊解であり、柔軟性を欠いたまま、阪神以外の地域における一般解として敷衍したことに疑問が残る。
何故このように現場の自由裁量を奪い、全てを国の掌のもとに閉じ込めようとするのだろう。

都市の計画において、自分も含めて陥っている、既存の制度に横たわる常識に疑問符を投げかけることから、再度始めることが必要である。


私にとっての都市2(常識の都市計画) [私にとっての都市]

私にとっての都市2

(2)阪神・淡路大震災の復興時に現れた常識の都市計画

ノートを重ねているうちに、ある日気づいたのが、現行の積み上げ型の制度のもとで、常識としての都市計画が、復興計画を妨げているのではないかということだった。

「常識の都市計画が垣間見せたこと」(95.05)を抜粋

今私は、神戸市の都市計画案の中で描かれた図柄を以て、用いる事業や既定の制度から物事を組み立て、予算執行の実務を握っている行政が全てを決定することを是とした常識の都市計画という当為が、この復興計画を落とし穴に陥れた要因なのではないかと感じている。

①行政と専門家による将来像の占有

強圧的な復興計画の提示は、予算措置のために必要かも知れないが、当面は復興地区の建築制限が重要な課題であり、市民が納得する将来像はその制限期間を通じて議論可能であった。
疲弊し尽くし、絶望感に打ちひしがれ、日々を過ごしていた被災者との合意形成の思いが、提示された計画案や手続きの中には感じられなかった。行政内部でしか意志疎通が図れない通常時の専門用語で表現することが、非常時に適切な選択であったとは考えがたい。
その後、震災の風景を見続けていたはずの神戸市から出された、副都心計画、防災拠点と高層群の模型を伴った再開発と区画整理よりなる復興市街地の計画案と、拙速としか言い様のない法的な手続きが予想からそれ程外れていなかったことが逆に驚きだった。
4月当初見た六甲道での大学と市民による代替案も、常識の落とし穴にはまっていた。

②提示された無名称の図

それらの計画にあったのは、少し前の街並の記憶とは似ても似つかない、よそよそしい都市の姿であり、阪神地域でなくとも通用する、災害に強い都市という無名称の図柄であった。
その図柄において、住民にとって、その地名さえ告げれば思い浮かべることが出来たであろう街の姿を自分達が持つことは無残にも否定された。
誰が住み、どんな商売が営まれるかは計画の初期設定条件なのであり、防災性にかこつけた大規模な広場や道路、容積率がスタートになるはずはない。
その図柄には以前あった、自分達が営々と作りだしてきた住まいと、一部に商店街や工場が混在した様々な街並や、亡くなった方への、住民の愛着への労りを感じることが出来ない。

③建築の建替への対処

マンションの建替で頭を痛めているのは、建替のための資金的な裏付けの無さもさることながら、約20年前の用途地域が定まる前に作られ、現状で既存不適格建築となっており、従前あったはずの権利が消滅している建物の場合である。
用途地域制定後、周辺の街並は、その地区条件にふさわしい制限として定められた用途地域によって作られ、現都市計画法の施行後の街並がその地の風景になりつつある。
通常の法的な判断では明らかに後者に軍配が上がるが、自助努力による早期の震災復旧を目指すならば、前者への配慮が必要となるため、どこか釈然としない。

④少し前に厳然とあった街の記憶を構想に入れること

震災地域の構想の基本となるのは、それぞれの地区は、震災によって消失した場合であっても、そこに居住するために戻ってくる人々が厳然として存在していることである。
必ずしも元通りの街にするのではなく、震災前と何かが継続した都市構造を持つことの必要性を物語っている。その何かとは、これからも住もうとしている人々の心象風景である、それぞれの地区に流れる生活時間のもとで、ドアや窓を開けたときに感じる街の雰囲気である。
長田区を例にとれば、近所の市場は、今日もお変わりありませんねと挨拶し、毎日食べる分だけ買う場だ。長田で欲しいのは、南に港があり、雑多な機能が街の中にあり、様々な国籍の人々と住居と店舗、町工場が混在し、温かみのある色で表現されるような街なのだ。
都市全体を眺めれば、それぞれの地区に戻る人々の顔や、そこで営まれていくであろう街の中の生活がきっと浮かんでくるはずである。


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