生命-その始まりの様式7 [生命-始まり]
生命-その始まりの様式7 -読後感2-
-終わりに その2-
私にとって、現象学は、時間と空間、客観と主観の二項対立を解消し、時間の中にある場で発現する世界内存在・受肉を再度通って、実存の意味を理解させてくれた。
社会学は、社会システムの多様性を図式化することによって、今日の社会構造とコミュニケーションのあり様を提示し、矛盾が生じる場を、経済の枠にとどまらず、経済と行政のシステムから阻害された生活世界の位置付けを今日的に開示してくれた。
多様性を受け入れた複雑系は、矛盾の内在の止揚によるより高い次元にといった弁証法の持つ進歩主義的な側面、必然と偶然の二項対立を解消してくれたかのように見えた。弁証法の有効性を棄てきれずにいてもである。或いは依然として二項対立的なものの見方から自由になれないとしてでもある。
それらが帰結するのは、全ての相対化を原点にすることであるような思いがする。
未来に開かれた生き生きとした現在は、目の前に広がる粗密がある地平の広がりに対して、多くの可能性をもちながら、どこかに収斂するという幻想=安定調和の観念の中にいたのではないか。その収斂の先が、決して得ることのできないユートピア(例えば社会主義)として切り捨てられて以降も、自分にとって幸福な未来(例えば自由が保障される民主主義)を求めて、より一層の豊かさを得るための条件をずっと議論していたのだろう。
他者のものである未来を、自分の掌中にするという誘惑から逃れられなかったと言えるのかも知れない。生き生きとした現在は、共有された言語のもとで語られる過去であり、その客観性のもとで未来に開かれる場における主観の契機ともなる。ただそれだけのものだった。
恐らく予知に長けていた後頭部の大きなネアンデルタールを滅ぼして、地球の生存競争に生き残ったヒトは、不得手だった予知能力を、自然的・動物的な感覚から、(全てを他者に委ねる宗教を経て)心身二元論のもとでの人間知の論理に、そして遂には人間知の外部装置であるコンピュータの助けを得た確率の中に委ねてきた。
それは、トフラーが提示した三つの波(農業革命、産業革命、電子革命)ともほぼ一致する。
その結果、人間社会は、これまで追い求めてきた未来を手に入れるため、予知し、それを制御することをも手に入れることができると錯覚した。17世紀に西洋が生んだ近代知の漫画的な結末が、20世紀のロシア革命とその挫折であり、イスラエルとアラブの対立を経た21世紀のブッシュの戦争である。そこでは、未だに絶対の正義を求めてやまない宗教観が支配しているように感じる。
ここで取り上げた書「生命-その始まりの様式」は、複雑系が広く脚光を浴び出した時の(或いは私の目の中に飛び込んできた)少し前であるが、多田富雄の超システムに見るように、生物学では既に自己組織化という概念のもとで生命の議論が展開されていた。中村桂子の「自己創出する生命」も1993年に出版されている。
また、始まりを問うことは、終わりを考えることであることを教えてくれた、人間の受精から誕生、死への旅路を生のレベルで示した森岡の指摘、今日の医療を通して人間の自然的生とサイボーグ化の意味を平明に記した西垣、生命をリズムだとしてその博学振りを示した中村など、はっとする議論が多く盛られていた。
そして、数年前にこのノートをとったとき、貴方にとっての始まりとは何かというこの書が投げかけた問を、大岡山の本館前、雪のように敷き詰められた雨中の桜の下で考えた。
40年近く前、演劇をやり、新聞会に籍を置き、メルロ・ポンティに出会い、人間とは美しいとつぶやいてから、そのままにしておいた問が、時間と空間、客観と主観の二項対立を解消することを通して、既に解かれていたことを知った。こんな簡単なことだった。
生命-その始まりの様式6 [生命-始まり]
生命-その始まりの様式6 -読後感1-
-終わりに その1-
以下は、私にとっての始まりに関して、ノートをとった3年ほど前に並行して読んでいた「思考の臨界」/斎藤慶典、「新現象学運動」/シュミットから得た一つの答である。
未来は他者の(いまだ自己のものではない)ものであり、自分の発現の契機が、現在である。生き生きとした現在は、振り返った瞬間に過去のもの(非存在)になる。
過去は、自分の経験として、或いは共通の言語のもとで記憶されるが、現在は、外に開かれた自分に与えられた契機として存在する。
嘗てサルトルがアジった投企の意味は、未だ自己のものではない未来を自分の掌中に収める、そんな主張であったのだろう。
客観と主観を対立した概念としてではなく、時間と空間の入れ子構造(ベルクの風土論における歴史の継承と地域性の肉化=通態性)のもとで、客観を過去・世界に、主観を現在・自己に置き換えると分かりやすい。
世界内存在の意味は、共通言語のもとで成立する過去に移行した客観社会の中に存在する、唯一自分に属する現在に成立する主観である。
そこで最も重要な価値観は、恐らく自己を選択できる自由である。
そして、実存を理解する上で、思考よりも感性・感覚が先立つことを認識しておく必要がある。自己の本能的防衛のために一挙に危機に対応できるのは、より動物的な感覚の部分である。
実存(ポンティが描いた傾性・受肉、或いは本能)は存在(人間の近代の思考・我思うゆえに我あり)に先立つという、半可知のもとで訳の分からない言葉を振り回して人間を説明しようとしていた時から40年ほど経ったが、こんな平易な言葉を、求めていたのかも知れない。共通言語として認識される客観性が優位に立つことはなく、それを下敷きにして人間が主観として、自ら生きる。
或いはその結果として未来がある。
全てを描き尽くそうとした20世紀の思想=現象学は、単純解を求める近代知の二元主義を超克しようとしてきたのだろう。
しかし、この現象学の世界は、人間の思考過程を追った分析的、静的な論理であることは否めない。
行政と経済へのシステムの分化、行政システムと生活世界の間の対立構造として、近代社会を見事に単純化して描き、多様なコミュニケーションのもとで生活世界に焦点を当てた社会学者ハーバーマスが提示した個人・社会集団の今日的なあり様も、多様性を保持したものの、弁証法の世界の中であった。
彼は、伝統的思考を引き継ぎ、社会内の矛盾に当たる生活世界に根ざした負の存在に、閉塞した行政システムに覆われた社会を変革する動力を見出す。NPOが彼を理論的支柱として求めた理由はそこにあった。
しかし、彼が普遍性を認めたのはフェミニズムにおいてであった。
また、アドルノが喝破したように、否定の否定は肯定ではなく、更なる否定の対象であるかも知れない。
それとは違った未来の地点に、混沌、負のフィードバック、自己創出という今までとは別の回路で、複雑系の論理が到達した。
複雑系では、ジンテーゼの場に位置する自己創出は、従来の弁証法におけるテーゼに内在する矛盾を止揚した必然的な結果としてではなく、偶然性に依拠した不確実な飛躍を伴う姿として描かれる。
答えは一つではなく、多様な結果が来たす収斂である。
客観性は、弁証法では明晰な分析=帰納の結果、テーゼとアンチテーゼ(矛盾の内在)の中に求められるのに対して、複雑系では混沌(多様性)の中に求められる。飛躍を伴う動的な未来は、負のフィードバックの結果、演繹的に得られる自己創出として描かれ、最早弁証法とは同じ必然性という言葉を用いることができないほどに、全く異次元の結末=現在或いはある状況の結果として与えられる。
そこでは、必然性の中に偶然性の概念が入り込んでおり、且つ現状をテーゼとアンチテーゼをベースにおく二項対立的な発想から逃れている。
また、時間や状況とともに変化する合理の転変=相対化もそこにはある。
分析の方法は、IT社会にふさわしく確率論の世界に委ねられる。
ここで、実存主義的にこの論理を個人に適用すれば、さしずめ、混沌の中にあり、後戻りできない選択をしたときに、もう一つの可能性をもった未来が宿るといった表現になるのだろうか。
予定された答えは、閉塞した現状を超えることはできないからだ。
しかし他方、閉塞した状況が打破されたときに訪れる新たな未来が、夢があるものとは限らない。
デフレの克服という名でリストラを奨励して多くの犠牲者を生み出し、未来に付けを回し続けた我が国の構図、或いは社会主義の幻想が潰えた後、貧困に目を瞑り、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教が己が正義を振りかざす原理主義のもとで、富の集中と人種的・宗教的差別、世界の秩序の再構築が進められている今日の構図は、決して幸福な姿ではない。
個の論理は、社会にアナロジーできるのだろうか。
生命-その始まりの様式 5 [生命-始まり]
「生命-その始まりの様式」(多田富雄・中村雄二郎編)/誠信書房 より
第14章「サイボーグの誕生」西垣通
1985のダナ・ハラウェイ(サルの研究者でフェミニスト)のサイボーグ宣言:西洋の伝統的思考(二項対立に基づく進歩歴史観、白人・男性中心の差別社会)を解消してしまう情報テクノロジーの出現=支配の情報工学に対するサバイバル戦略→生物と機械の境界の曖昧化→女性や有色人の解放のための再生機能を備えたサイボーグとは、生物/機械、男性/女性という境界線を侵犯する象徴。
機械が意味内容を把捉できない点からの、生物とは何かという根源的な問い。すべてがコード化できコンピュータで操作できるというオプティミズムを否定するところから、21世紀の知は発芽する。
人体の神経系には眼鏡、補聴器などの機械が進入しているが、サイボーグのイメージに近いのは人工臓器である。脳を除き、臓器に類似した機能を持つ機械をつくることは困難ではない。マイクロメカニズムが、それを可能にした。その例として、血糖値をコントロールする人工膵臓の開発がある。
マイクロ医療テクノロジーも、サイボーグ化の可能性を推し進める。
人工臓器やマイクロマシンによる医療は、近代的な西洋型思考の極致。そこでは人体は細かい機能単位に分析され、物理的=機械的な部品として特定される。しかし脳との関係は視野に入っていない。
生体と機械との根本的な差異は、両者が相異なる時間の流れの中に位置付けられることにある。理想的な機械は円環的時間の中に止まるのに対して、生物は過去の蓄積によって、時間軸を貫く偶然の積み重ねによって存在を許されたものではなかろうか。ゲノム(DNA遺伝子の総体)は、同じ固体を再生産する複製コードというより、35億年前からの進化の歴史を蓄積してきた記憶コードとみなせる。
マイクロマシンを埋め込むことによって流れ込んでくるのは異質な時間だけでなく、脳の機能から独立した異質な論理でもある。これまで何とかまとまりを保ってきた意識的生体の思考の中に、外部の時間や論理が混入してきたとき、個人の責任はどこまで問われるだろうか。
病んだ組織を摘出して人工臓器で置き換える代わりに、トータルな宇宙の情報系に着目し、調和的に機能の回復を図っていくという発想のもとで、生命情報系に着目してよい。
人間の知や思考とは、完結した論理的な言語体系に閉じ込められるものではない。コンピュータを中心とした情報機械は、私達が宇宙のトータルな情報系と相互作用を行う能力を増大させる。サイボーグというのはその最も発達した一形態なのである。生物/機械の境界の解体が、現代的な意味である。
「サイボーグについての論述は様々なことを考えさせられた。
人間の機能の拡張を考えれば、例えば眼鏡はその第一歩であるし、ペース・メーカーも身近な生命維持の手段になっている。精神外科でロボトミーの技術が活用されていたことがあり、インカ時代の頭蓋骨で外科手術の後が話題になった。SF映画で、マトリックスの第一話は妙に興味をそそられた。
生命体と機械との差が、時間の蓄積を内化できるかどうかは別としても、情報技術の発達は、人間の知や思考を増大させる機能を外側に作り出した。
最近のケイタイの急激な進化は、今までとは違う人間の拡張をもたらしており、若人にとってケイタイは五感の一部と化しているとすら感じることがある。」
第15章「生命の始まりとリズム」中村雄二郎
問1
自己秩序形成(自己組織性)という性格をもち、高度の自立性を備えた有機体は、何故生きている・生命を持っているといわれるのだろう、その性格はどこまで本質的なものだろう
:活動力は、自然界との物質的代謝を通して自己形成し、自己の生存を保ち、外界からの刺激に反応し、自己の活動全体をコントロールする力のこと。その根底は、非線形のリズム振動。空海も言う<地・水・火・風・空の五大にみな響きあり>
問2
生理学的なレベルだけでなく、いろいろなレベルで、活気のあるものは生きている、活気のないものは死んでいるといわれるが、その場合の活気とは、単なるエネルギーでないとすると一体何か
:生きていることが様々なレベルにありうるのは、物質、生命体、精神全体に関わるからである。脳死判定の心臓死のうち、心臓拍動、自発呼吸、瞳孔反射の停止は、周期的なリズム振動の停止。オクトビオ・パス<道徳も政治も技術も芸術も哲学も人間活動はみなリズムに根ざしている>
問3
生命有機体の在り様をなすアナログ的・非線形的なものと、デジタル的・線形的なものとの区別や断絶が絶対的でないとすれば、両者を結びつけるのは一体何か
:自然界に存在している周期的なリズム運動が、デジタル的・線形的なテクノロジーによって、部分的に作りだされた。我々のまわりにはあるがままの自然は殆どなく、制度やテクノロジーを介することなしに実在や自然と接することは困難。
「こんなに簡単にまとめたが、オクトビオ・パスの文化論、空海の言語論、プラトンの宇宙論、作曲家ヴァンサン・ダンディの太初のリズムから始まるこの論考は、そうすっきりいくものではない。哲学に興味ある人に読んでもらいたい。」
生命-その始まりの様式 4 [生命-始まり]
「生命-その始まりの様式」(多田富雄・中村雄二郎編)/誠信書房 より
第Ⅱ部
第9章「始まりとは何か」小林康夫
始まりは、対象の側にあるのではなく、対象を表象する人間の側にある。始まりは存在のカテゴリーには属さず、文化の厚みを通じて決定された区切りとしてある。
人間は、始まりなきものに始まりを設定することによって、世界を自らの自由のもとに置き直し、人間化し、それを引き受ける。自然のうちに根拠をもたない区切りが、区切りとして機能するには、社会化され、制度化され、一種の契約となる必要がある。
言語は、一方では、時間と表象の分断を通じて、我々に現在という時間を超えた表象操作の自由を可能にすると同時に、他方では、他者との根源的な共同性を開くことによって、我々にとっての倫理(終わりをなす・法)-民俗的なもの(始まりをなす・物語・神話・謎)の場を一挙に開示する。
第10章「生命のトポス-細胞と意識」饗庭孝夫
細胞の集合体・覚醒時の自我、偶然の紅茶から始まる思索(プルースト)
=自我は先ず第一に身体自我であり、身体感覚から生じる(フロイト)
→自我という観念は周りからフィードバックを受けて強化されていく(ライアル・ワトソン)
デカルトの純粋、連続する自我ではなく、ランポウと等しく私とは他者である複数の自我である。
第11章「宗教的生の始まり」笠原芳光
自然的生(生まれ、成長し、衰え、死ぬ日常的な生)に対して、宗教的生(人間を超えた生き方、自覚的、非連続的・断続的生き方、信仰は信ずる対象との関係)がある。
宗教的生の始まりとしての回心=生き方の転換。
宗教の定義は宗教学者、或いは宗教に関心のある学者の数だけあるといわれている。
宗教とは人間と人間を超えたものとの関係の体系である。
・神を知って、これを模倣すること(セネカ)
・人間の意義を神の至上命令として認識すること(カント)
・絶対精神の自己意識(ヘーゲル)
・絶対委嘱の感情(シュライエルマッハー)
・人間的本質の人間自身における反映(フォイエルバッハ)
・人間にとっての阿片(マルクス)
・神と人間との関係(ティーレ)
・神聖なものに対する信仰と行事の組織(デュルケム)
・下部組織としてのリビドーの錯綜(フロイト)
・最高の理想を全人間的な感激を持って追求すること(デューイ)
・個人が自己の孤独を処理する方法(ホワイトヘッド)
・物質の抵抗を破って飛躍する生命の発現(ベルグゾン)
仏陀は本来の自己を自覚した人であっても、仏教者ではなく、僧侶ではなかった。イエスは自由を生きた存在であっても、キリストや神の子ではなく、キリスト者でも、司祭や牧師でもなかった。
第12章「唯識から見た生命の始まり」武村牧男
生命の始まりという主題は仏教に馴染まない。
第一に仏教は、個体は生死輪廻を繰り返しその始原を知らないとし、宇宙は果てしなく生・住・壊・空を繰り返すが始原は特定されない。無始・無終の永劫回帰が基本的な世界観である。
第二に仏教は、生命という概念を重用していない。根本思想に無我があり、我・命者(生きているもの)は徹底して否定される。
仏教思想とは、釈尊が悟った法(ダルマ=真理)の分析に他ならない。
唯識は、外界としての物質的な存在、それも実体としての存在を否定する。
一人の人及び世界は、様々な心的要素の和合体として描述される。単一の自己という観方を否定する。
心王(五感と意識)・心所(心、煩悩等)は、刹那刹那に縁によって生じ、自然に滅する。
唯識では生命は、身体と精神と環境とを合わせたものである。
過去は消滅し、ただ現在のみが刹那滅のうちに推移していくとき、行為そのものはなくならざるを得ない。生死輪廻を貫いて情報は伝達され、無始より無終に相続されていく。
仏教の時間論は、直線的に流れる絶対時間が存在しているという見方には立たない。
第13章「マンダラと生命」松永有慶
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は、天地を創造する神は唯一神で、この現実世界とは別個に、厳正から超越して存在する。それに対してインド人が考えた創造神は、バラモン教でありヒンドゥー教であり、あくまでも現実世界の中に存在し、天地万物と隔絶した存在ではない。
紀元前千年ごろに成立したといわれるバラモン教の「リグ・ベーダ」では、「宇宙の太古には無もなく、有もなかった。自らの力によって風もなく呼吸していた唯一なるものは、熱の力によって出生した。最初に唯一なるものに意欲が現れた。聖賢たちは、有の起源を無に見つけた。」とし、紀元前800~500年頃のウパニシャッドの時代になると、「太初において、宇宙はブラフマン(梵)だった。私はブラフマンだとそれ自身は知るのみだった。そこから一切が生まれた。」と説かれるようになった。
気息を意味したアートマン(我)が、宇宙原理ブラフマンと同一視され、梵我一助の思想=自己をはじめ天地万物の中に、創造者であるブラフマンが内在するという、大宇宙・小宇宙の一体論の哲学が生まれた。
釈尊ゴータマブッダは、世界の生成、死後等に関する形而上学的な問題には沈黙を守った。
仏教教団により4世紀頃書かれた「倶舎論」では、須弥山を中心に七つの山、八つの海が取り囲む世界が構想されている。しかし、天地万物の生成等は触れられていない。
9世紀はじめ空海によってもたらされたのが、胎蔵マンダラ(大日経の慈悲、宇宙の本質を母体と想定、十三第院・409尊)と金剛マンダラ(金剛頂経、堅固な悟りの境地、九会・37尊)でいずれも中央に大日如来。
後期密教の時代、中央は大日如来から憤怒尊に代わり、ヒンドゥーの神々、男女の合体仏をマンダラに取り入れ、インド密教(チベットに残存)が民衆に受け入れられた。アンコールワットでは須弥山が中央に抱かれており、ヒンドゥー教の天地創造の乳海攪拌が彫刻されている。
生命-その始まりの様式 3 [生命-始まり]
「生命-その始まりの様式」(多田富雄・中村雄二郎編)/誠信書房 より
第6章「脳と心の始まり-脳進化論序説」黒田洋一郎
17世紀初頭デカルトの物心二元論。「我思う、故に我あり=心」と自然=肉体としての脳を機械論的に見た態度。二世紀後、心や精神が脳という物質自体にあることがガルによる言い出され、ブロードマンが脳地図として集大成。20世紀半ばには、大脳の命令系統の詳細が分かった。
ダーウィンの進化論:サルからヒトへの進化は神がヒトをつくったキリスト教の創世記と対立し、適者生存の概念は政治・社会問題に転用され、優生学が肯定された。
脳(中枢系)の誕生:ミミズ、ゴカイなどの環形動物で基本は出来上がっている。進化の過程は枝分かれなので、一直線に変化していくとは限らない。脊椎動物の脳は、後ろから、髄脳(反射中枢)、後脳(随意運動をコントロールする小脳)、中脳(視覚)、間脳(生命維持)、端脳(臭覚から発達した終脳で行動決定の大脳)が順次発達。脳と脊髄の重さはヒトが49対1、ゴリラ16対1、犬や馬3対1。
心は、言語の誕生とともに、ヒトの前の石器を使い、埋葬儀式を行ったネアンデルタール(10万年~3万年)から始まった。ヒト脳への進化は、言語野を中心におこった脳の神経細胞を増大させる調節遺伝子と、脳の軟らかさの時期(感受性期)を延長させた調節遺伝子で説明できる。
ヒトの脳は、ことに「ある行為が将来どのような結果を招くかを予知する想像力、洞察力」に欠ける。
第7章「ヒトの起源」養老孟子
ヒトの起源とは、ヒトという存在をどう規定するか、それを探ることである。ヒトがサルから生じたことを無条件に認める社会では、死者がヒトであるか否かを議論すらしない。日本ではヒトを既に規定されたものだと考えている。
ヒトとチンパンジーの遺伝子の違いは1.6%しかない。ヒトの起源に関して、ゲノムの研究から有効なのは、脳の増大(300万年の間に3倍)である。変異という起源と選択(非排除)の結合。
ネアンデルタール人と現代人の違いは、現代人によるシンボル体系の操作=アナロジー能力。これが言語を生み出し、言語は書字機能で完成。我が国では2千年にもなっていない。脳化動物であるヒトの起源は4~5万年から20万年の間。
ヒトは恐らく自然を必要とする。脳化社会はその自然を排除し、世界を透明に保とうとする。そのほぼ完成した社会が中近東であり、中国であり、環地中海世界であり、我々の社会はそこに収斂する。
ゲノムの理解が進み、ヒトがヒトを人工化する社会が将来やってくる。遺伝子操作によって生じた変更されたヒト、我々がそれを見る目は、ネアンデルタール人、原人、猿人に対するものと同様である。
第8章「人間の誕生と廃棄-生殖技術と倫理学」森岡正博
胎児はいつヒトになるのか、いつをもって死とするか、様々なことを考えさせる始期と終期を対称的に描いたレベル。
生命の始期 生命の終期
レベル0 精子、卵(生命の始期)
レベル1 受精卵(生命の始期) 身体死、心臓死(生命の終期)
レベル2 前期萌芽(生命の始期、15日) 脳死(生命の終期)
レベル3 後期萌芽(生命の始期、8週) 植物状態(生命の終期)
レベル4 前期胎児(生命の始期、10~12週) 植物状態(生命の終期)
レベル5 後期胎児(生命の始期、22週) 植物状態(生命の終期)
新生児、幼児(生命の始期、出産後) 痴呆性老人(生命の終期)
レベル0、受精。レベル1から2への移行期、臓器形成が始まり、自己同一性を確保。レベル3への移行期、脳幹形成。脳機能は存在するが、コミュニケーションは遮断。レベル4への移行期、身体形成を完了。レベル5への移行期、母体外生育可能性を獲得。
ヒトに関する生命倫理学で話題になるのが「潜在的可能性」、「自己意識」、「痛みの知覚」である。
潜在的可能性:受精卵を潜在的状態にあるヒトと見なすべきかの議論。
自己意識:脳の形成までヒトとして認めないか否かの議論。
痛みの知覚:レベル4では痛みを感じるとされているが、それまでヒトとして認めないかの議論。
潜在的可能性は、始期と終期では異なり、脳死は潜在的可能性を殆どもっていない。
脳死を持って人の死と考えない人は、同じレベルにある前期萌芽(妊娠の自覚)をも生きた人間と考えなければ筋が通らない。その場合、全ての人工妊娠中絶は殺人になる。
『ネアンデルタール人と原人の差は、喉・舌の長さで、言語能力の差だったという仮説を、どこかで聞いたことがある。複雑な言語による伝達能力が、人間たらしめたという説で、思わず腑に落ちた記憶があるが、何時のことだったか覚えていないのは情けない。
人間の誕生と死のレベルから説明される脳死と中絶の関係は、図で描くと分かりやすい。その説得力のある図に、衝撃を受けた。短絡した感情のもとで、安易な殺人が横行する。死刑に対する議論も深まらないままに、陪審員制度が導入される。生命の尊厳を、どうやって理解できるのか。』
生命-その始まりの様式 2 [生命-始まり]
「生命-その始まりの様式」(多田富雄・中村雄二郎編)/誠信書房 より
第3章「生命の始まり」菊地昭彦
生命は、およそ35億年前には既に最近のような微生物にまで進化を遂げていた。化学物質が生命に至るまでの過程、10億年を、化学進化と呼んでいる。
生命の第一の特徴は、自己増殖である。生命とは、情報(遺伝子、DNA=核酸、設計図)とそれを実行する装置(蛋白質)である。DNAの配列は、人間が3ギガ、ウナギ110ギガ、タマネギ150ギガ。細菌の細胞中にある蛋白質は3千種、人間はその10倍程度といわれており、DNAの数は必要以上に多い。DNAをコピーするには酵素が必要で、機能である酵素が、始めになければ生命は成立しない。
雲母のような鉱物も自己増殖する。一部欠ければその書けた部分をもちながら増殖する。そのほうが生命の初めかもしれない。周囲に比較的たくさんあったものから生物は生まれてきて、それを糧に生きている。時間が自然現象の一環だった。
第4章「固体づくりの様式」岡田節人
個体の成り立ちを語るに当たって、近年ボディプラン(生命個体の中でのさまざまな機関の空間的配置、固体全体の姿形の設計図)という言葉がしばしば使われる。
個体づくりの形態変化の基本的な要因をなすのは、生物の空間に存在する勾配的性格である。→時間的な変化に伴う一定の形の変化→レイアウト
フレキシビリティとその制限
第5章「免疫超システムの始まり」多田富雄
一始まりの始まり
:いつから人間が始まるか。現行の優生保護法下では22週以降の中絶は禁止。93年国際会議では、15週くらいの胎児は一人前の患者。西欧の科学者と宗教家の論争では、脳の始まりは神経管が形成される受胎15日ころから、脳脊髄が分かれていく4週ころの間。
二始まりのルール
:受精→卵の分裂→細胞の不揃い化→腹側、背側、頭側、尾側の方向→外胚葉・内胚葉・中胚葉→脳神経系、消化器系、運動器官系、循環器系、呼吸器系、生殖器系の個体発生の過程。
その過程を司るオルガナイザーは、サイトカインと呼ばれる多機能分子群で、造血因子にも免疫反応にも寄与するが、その働きは冗漫、曖昧、不確実、だらしなさといったキーワードで説明される。整然と進行する発生においても、初めから全部が決められていたわけではなく、偶然的な出来事、例えば胚の中に占めた位置関係が原因となって、次の結果が誘導され、それが連鎖していく。
生物の器官の発生や形の形成は、細胞が置かれた場に適応して特定の細胞表面蛋白(接着分子)を作り、相性の良いもの同士が繋がりあい、サイトカインに対するレセプターが発現し、分化が誘導される。このようにして全体としての自己組織化が進行していく。ある程度まで分化した細胞には、既に運命付けが行われており、それぞれの臓器の組織構成へと進行する。
三場のルール
:始まりは平均した一群の細胞→上下左右前後などの位置による歪→偶然に細胞が選ばれ、近辺がその影響で変化→細胞表面の多様な分子を作り出す因子を会して自己組織化
生命の基本的な設計図は、DNAの暗号で綴られる。個体の形は三次元であり、個体としての生命は発生、成長、分化、老化、死などの時間的なものを内包する四次元である。生命科学の問いと答え。
四超=スーパーシステムの始まり
:未決定の始原的なものが、複雑化することによって多様性を生じ、その多様性を会して自己組織化を進めていくような自己創出系を超システムと呼ぶ。個体の発生は、重層化した超システムの創出過程であり、その中に脳神経系、免疫系、内分泌系などを含む。
発生を完了した個体は、更に集団や社会を形成し、人間のように国家、文化、経済、言語系などの別のレベルでの超システムを作っていく。人間の社会活動は、生命活動そのものの表出である。
五免疫超システムの誕生
:免疫は、個体内に自己以外の異物(非自己)が進入すると、それを排除して個体の同一性を維持する仕組みである。免疫系の細胞は、造血幹細胞と呼ばれる原始的な細胞に起源を持つ。幹細胞は、自分でも分裂しながら種を保存するが、必要に応じて別の細胞に分化して新しい役割を担う細胞に変化する。血液細胞の大本でもあり、免疫造血系の始まりである。
六幹細胞からの始まり
:体内では一日数千億個の血液細胞(赤血球二千億個、白血球七百億個、リンパ球百億個以上)が死に、新たに供給され、一定のレベルを保っている。血液は予め決められておらず、免疫造血形という自己を形成していく過程に、サイトカインという多目的分子群が利用され、細胞の置かれた場に応じて、供給される。幹細胞から種々の細胞ができていくる過程は、発生そのものであり、その過程が偶然性に依拠して確率論的に決定されている。発生した細胞は、場の適応に応じて発生と死のドラマを毎日起こし、生命を維持している。
七免疫学的「自己」の始まり
:個体に進入した非自己は免疫系によって認識され、多くの細胞が動員され排除される。その結果「自己」の同一性が維持される。非自己を認識し、抗体を作り出すB細胞と、非自己を排除するT細胞。「自己」以外のあらゆるものと反応できる一揃い(レパートリー)を作り出し、「自己」の体制を形成するために、免疫系は偶然にもとづく膨大な失敗や無駄を犯している。
八超(スーパー)システムの成立
:「自己」を破壊することなく、「自己」への進入を発見し、共同しながら個体を守ることができる一揃いが、血液を循環し、「非自己」と反応する「自己」の体制に参加する。「非自己」と出会うことによって、個性ある「自己」を作り出していく。胸腺の中のT細胞の殆どは死に、3%程度が血液に送り込まれる。初期段階のT細胞は非自己を排除するキラーT細胞、サイカトインを作るヘルパーT細胞に分化するが、その変化も偶然性に委ねられ、確率論的である。この経過で90%以上の細胞が死んでいくが、死に方はDNAを自己分解してしまう一種の自殺である。
九始まりを求めて
:個体の発生も、免疫学的自己も、全てがプログラムされているわけでなく、「自己生成的」に作り出される。これは脳神経系の発生でも同様である。1.全体のプログラムはゲノム(遺伝子の総体)に書き込まれているが、何に分化するかの運命付けは、偶然によって、確率論的に決定される。2.分化を始めた細胞は、場を変化させ、次にプログラムされている分化を誘導し、適応・共適応によって新たな関係が成立し、自己組織化が起こる。3.免疫系のようなシステムでは、多様性を作り出す遺伝子の動きが生じ、レパートリーが「自己」という内部環境への適応のもとで選択される。4.このように生まれた超システムは、完結したシステムではなく、外部に開かれ、自分自身をも変えていく。このシステムには始まりも終わりもファジーである。
脳死と人工中絶に関して、アメリカと日本では価値観に大きな差がある。始まりと終わりの時点というのは、生命の価値に関わる文化的な基準によって決定する以外にない。
『こんな文章にぶつかると、人間・生命って、すごいなと素直に思う。多田富雄の「生命の意味論」(新潮社)もご推奨の本で、-超システムとしての都市は、歴史の記憶を持っている。私たちが都市を旅してのぞきこむのは、都市の記憶である。この記憶によって都市はアイデンティティ(同一性)を保つ-といった表現は、感動を与える。』
始まりの様式 1 [生命-始まり]
生命-その始まりの様式 1
時々、寄り道をする。
「生命-その始まりの様式」(多田富雄・中村雄二郎編)/誠信書房の紹介である。
1994年、今から10年以上前に上梓された本だが、いくつかの面白い論文に出会った。そこでは、科学的記述のほうが、理念的・定性的記述よりも数段面白く、想念を沸き立たせた。
7回に分けて、要約と読後感を掲載する。
第Ⅰ部
第1章「科学的知の始まり」村上陽一郎
呪術社会では雨乞い、古代ギリシャでは天動説(地球中心説)は合理的だった。地動説(太陽中心説)コペルニクスですらキリスト教の神による宇宙の創造が明示的に語られている。
こころやたましいを排除した物質を記述しようとした心身二元論を唱えたデカルトであっても、神が別に運動を作ったとしている。
ニュートンは、物質を自己展開させる原理を認めている。ガリレオで初めて、人間の感覚に訴える性質が後背に退き、形や重さなどが第一義的な性質として理解された。
現在の科学は宗教となじみが薄く、むしろ背反の関係にある。合理性の概念も変質した。
18世紀から19世紀にかけて、キリスト教神学の崩壊と、知識の離脱が、科学をもたらした。時代的な要素として、文明(自然を人間の都合により矯正)という概念の成立があった。
20世紀初頭以降、自然と切り離して、人為を扱う学問が社会科学として成立しだした。
第2章「宇宙の始まりの様式」(佐藤勝彦)
相対性と量子論という2つの武器を用いた研究者による現代の創世記。
宇宙:2千億個の恒星、10万光年ほどの渦巻銀河である天の川銀河、隣のアンドロメダ銀河までは230万光年、観測的に知られている宇宙の果て150億光年(→137億年)までにおよそ1千億個の銀河、銀河が殆ど存在しない1千万光年もの大きな空白地帯、時間的に進化している宇宙、相対論の立場からの宇宙は三次元の空間と一次元の時間からなる四次元時空とその中に存在する物質的存在の全て。
ビッグバン宇宙論と特異点:宇宙の創造は超高温の火の玉。宇宙の創造は、時空の計量が発散した、無限のエネルギー密度をもった数学的特異点で、その先には遡れない時間の果て。そして終焉も同じ。
素粒子的宇宙論とインフレーション:宇宙が始まったとき、一つの種類の力しかなかったが、宇宙が膨張し冷却する過程で力も枝分かれを起こし、現在の四つの力が生まれた。物理学者の描いている真空は、電子とその反物質である陽電子、陽子と反陽子という物質粒子とその反物質粒子がペアで生成消滅を繰り返している物質が存在しない基底状態=宇宙を急速に膨張させる巨大な真空のエネルギーをもつ状態。→無から、インフレーションを起こし、相転移が終了後普通の熱エネルギーになり安定。
量子宇宙論(無からの宇宙創造):無とは時間と空間が存在しない状態=時空の大きさゼロ、エネルギーゼロの状態。宇宙の創生の前にある虚時間の存在。宇宙の大きさは、10の-34乗、陽子や中性子よりも小さい。量子論では、全てが波の存在の大きさであらわされる確率的に存在し、発達する=不確定である。境界がないのが宇宙の境界条件とホーキンスはいう。
人間と宇宙:アインシュタインは、「私にとって最も分からないこと、それは何故我々が世界を認識できるかということだ」と述べたという。宇宙の空間が三次元であって始めて生命は生まれる。
現代の創世記、今後の課題:宇宙が収縮を始めれば、宇宙の大きさを表わすスケール項である時間は逆転を始める。宇宙では遠方を観測するということは過去を見ることである。宇宙が数千度以上の不透明な時代から、透明な状態に移るのは開闢30万年頃である。






