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杉並まちづくりノート11 [杉並ノート]

杉並まちづくりノート11

4.再びまちについて

1)ありふれた風景の中に

例えば今見えるまちを、時間の軸や空間の広がり、人のつながりから近づこうとしてみたが、アリアドネの糸は見つからなかった。

もうかれこれ20年になるのだろう。 
手の暖かさも知らずただ自分の中に広がるイメージを追い求めていた。 
それはピアノが弾けた幼い頃の少女への記憶と重なったからかもしれない。 
それを埋めるために杉並には何度か足を運んだ。 
そして街路灯が反射する舗装の道の記憶と、駅前の飲み屋と、冬の熊手にふと街角で出くわした点のつながりだけがある。 
今は地図の上でもまた駅を降りても辿れない。 
昼と夜とは違いまた決して町を眺めて歩いていたわけではなかった。 
ただその下宿の前の道端の像が残っている。 
酒と言葉だけがあったただ人が必要な時代だった。

同じ杉並といっても、その中に一定の顔を見つけるのは難しい。そこに時間を入れると様々な風景が見え隠れし、余計に混沌の中に入り込む。共通の風景を探すとしたら、その時点の人々の生活形態の近似性や、喫茶店の内装や、特化した雰囲気の店・自己主張するビルによる町並みの混乱や、10年余り変わっていなさそうな住宅地といった、一つ一つの時点を横に切ったときに見えてくる、地域毎のありふれた風景だろう。

しかし現実には、老朽化した家の隣にマンションがあったり、屋敷町の中にミニ開発が現れたり、古い床屋や駄菓子屋があったり、樹齢100年をゆうに越す木が住宅地の中に残されていたりする。

幹線道路のそばは高い建物が並び、駅周辺ではビルに囲まれた町屋がある。しかし裏側に入り、そのビルを背にすると、どこの住宅地か分からなくなる。

古い商店街のそばは多くの場合、何となく周辺は稠密な宅地が連なり、人の動きも含めて、どこか店が近い匂いがする。人が集まるところと、分散する道が微妙に変化する。
比較的新しい商店街では、商店と住宅が隣り合わせ、一挙に町並みを変える。新しい店が住宅地の中にでき、いつの間にか町が連続している。
古い近隣の店はそのまま住宅地の中に残っているが、新しい町では道を聞くための煙草屋を探すことも難しい。庭木が道に張り出す町は、季節毎に、年毎にその町並みを変えていくが、道に沿って家並みが張り出す町は、時間しか感じられない。

まちの大きさを、日常生活が完結する広がりに求める方法もあるが、最近ではそのような具合に地区はできていない。生活様式が多様化し、生活の中にゆとりある時間が増えるほどに、生鮮品の貯蔵が可能になり、日々の買い物が重要なウェイトを占めなくなるほどに、日常生活の範囲は広がる。人々の生活は家に縛られるが、まちに縛られなくなる。50万人都市杉並では日々その4割の人が昼間区外に出ている。まちの中心は、新しい町ほど商店の集合ではなくなる。一軒のスーパーは街角にあるが、もう中心ではない。


杉並まちづくりノート10 [杉並ノート]

杉並まちづくりノート10

3.コミュニティについて

2)新旧の住民のつながり

このコミュニティという様々な顔を持った言葉が、もう一つの不透明さをまちに加える。
まちづくりを計画する側から見れば、ある目的に限定できるため、共通の対象である施設に行きつくし、またその施設を作る活動母体としても意味を与えることができる。
しかしその契機がない地区では、日常の人々のつながりであるコミュニティの場が共通項として現れない。そして住民が求めているのは必ずしもまちではない。

その時そこに根付いている地縁を探し、それをそのまちのコミュニティの母体とすることでいいのだろうか。

ワンルームマンションを排除するのかそれともそのまちに取り込んで考えるのか、受け入れる側の住民の価値観・本音に対して一般論で判断を下す自信はない。
それは例えば方南町に林立するマンションによって、そのまちが外観だけでなく変わっていくこととは違う。
新しく入ってくる住民は、まちにではなく部屋に定住する。壁の隣に住んでいる人と廊下で顔を合わせたくないような疎遠さも、むしろそこでは似合っている。そして扉を開けない限り、オーディオの音は部屋の中に閉じこもる。

その関係がまちなかに突如持ち込まれるとき、今まで意識してこなかった近隣の秩序みたいなものへの愛着が生まれるのかもしれない。
しかしその愛着ですらも、住み続けてきた人にとっては、後から住みついた人々によって壊されてきたものかもしれないのだ。
それは、その土地の価値の低下とはまた違った意味を持つものだろう。

全員が同質であることは、コミュニティにとって必要ではない。そしてまた一定の目的を持ったものであることもである。
皆が自分の領域を守るだけであってもよいのかもしれない。
その時のルールが、各個人を認め、幅が広いものであれば、それだけそのコミュニティに含まれることになるし、ウェットな部分がないだけ長続きしよう。

祭り好きの人がまちの御輿を担ぐ。共感する人が自宅に祭礼札を張り、御酒所に酒を差し入れる。それだけでよいはずなのだ。
皆がそこに参加することは必要ではない。
人々が自分の領域を守り、お互いに干渉することなく、お互いを受容していくような相互の信頼感が、まちのつながりの基本となって欲しい。

その時、住民が選択したつながりを壊さないこと、そのつながりに相応しい場を作り出すこと、或いは守っていくことが重要な点である。
そして同時に、そのつながりを求めない住民をそのままにしておくことも重要である。彼らもそこに住むことにより、種々の制約を受けるのだから。
新住民がまちの一角を占めたからといって、まちが壊れるわけではない。道沿いに咲くはずだった牡丹が蕾のままむしりとられているのを見る時、人は塀をつくる必要性に迫られるのだし、道に張り出す緑が少なくなるのだ。

部外者にできることは、住民がその土地に定着するための環境を整えることだろう。それは柔らかなものほどよく、そのまちの生活や空間に似合うもの程よい。

住む人が自立し、自由な生活の場を通してつくられていくコミュニティが現れるのをもう少し待つほうがよいのかもしれない。


杉並まちづくりノート9 [杉並ノート]

杉並まちづくりノート9

3.コミュニティについて

1)人々のつながり方
吉田氏は、テーマの一つとしてまちにおける人々のつながりを取り上げる。
そして、谷川氏は隣組のにがい記憶をまちの移り変わりの中で語る。

コミュニティの視点からまちを見ることは古くからあった。
しかし、コミュニティという難題が市町村レベルのまちづくりで取り上げられたのは、中野区で住区会議の制度化を行政課題として以降のことであり、杉並区でまちづくりの過程で住民協議会として具体化したのは、地区計画制度ができて以降のことである。

このまちを対象としたコミュニティの発想は、町会とは異なり、地縁としてではなく、そこに住む個々人の多様さをどのように掬い取り、共有の場を作り、また合意にいきつけばよいかを模索した結果生まれたものだろう。

しかしコミュニティの問題から都市を論じようとすると、官と民の境界の不確かさがどうしても気になる。
質である多様さを出発にしていながら、量である人の多さに変わっていく所がある。

コミュニティの出発は民相互の信頼であり、展開も帰結もそこにあるはずだが、公のルールを持ち合わせていない都市の民にとって、コミュニティ形成の内部的な規範は簡単には探し出せない。
吉田氏のテニスコートの話のように、周辺の住民と利用者が利害を通して取り組めるような出来事がないと、自然発生的なつながりが何かを生み出すことは難しい。

しかし原水禁の運動が始まったのは杉並であった。
住民組織(運動)を一括してコミュニティ活動としてくくることは乱暴であるし、高井戸でのごみ戦争や中央道での運動等を、蚕糸や気象研の住民協議会と同レベルで語ることはできない。
しかし別に迎合することなく、それらを都市の様々なコミュニティの一部として捉えておくことは重要な視点である。
例えば区の呼び掛けで作られた環七の協議会を住民運動だと位置づけたメンバーもいたし、ボランティアに徹し欠かさず会に参加したメンバーもいた。
あるまちを対象として、その中で合意点を見つけ出していく場合、そこに住む人々の多様性を出発にしていくことが重要である。むしろ反対の立場があることが合意にとって重要である。

そのような公共の事業に結びつく以外にも、地縁型のコミュニティは町内会、商工会、住区の集まり、氏子のつながり等様々である。
自然発生的なもので、マンション等への反対を契機にして近隣のコミュニティが出来上がる場合もあろう。

この他まちを見ていく場合、もっと掴み所のないつながりや、日常の生活の中にそのまちのコミュニティを見ていくことも出来る。
例えば、まちには現れてこない隣人の故郷からの土産や多めにつくった五目飯のおすそ分けや、子供のつながりをだしにした母親たちのつながりがあり、琵琶を一つおまけする八百屋とお得意さんの関係のような、煩わしくなれば戸を閉ざせばいいつながりである。

それは社会の原単位のちょっと外側にあり、維持するには強制があってはいけないような、そんな関係である。

大雪の日、雪だるまもなくマンションの前にだけ残る雪、その景観はお互いに話し合わずとも、家の前に雪かきが連続していくまちの、一つの側面である。
例えば老人夫婦の家の前は誰かが済ませるといった、お互いの事情も知らずうちに伝わっている。ただ年々その風物はなくなってはいる。
ここでマンションの前に残る雪に、強制がないことを見て取ることが、おそらくまちを見ていく場合に重要なのだろう。

住民が生活していく場で、規範とともに自由さを公として見出すことをである。

その公の概念を官が手にした時から、おそらく場の共有というものが、見えなくなったのだろう。
住民は公に従う私人に徹することが、いつの間にか必要とされたのだ。
隣どうしの、或いは村の付き合いにとどまった日本の風土における公の概念は、西欧のようにオープンなものでなく、閉鎖的な「うちとそと」との関係を基本として成立している。

そのため、一歩間違え、そとである近隣関係が権力の構造の中に含みこまれると、戦前の隣組といった相互監視システムにまで昇華する。
公がつく熟語に民の自発性が感じられないのも、日本の風土の現れであろう。

この欠如を民主主義のもとで掬い取ろうとした時、コミュニティという言葉が必要になったのだと思っている。

杉並まちづくりノート8 [杉並ノート]

杉並まちづくりノート8

2.まちの風景

4)見えてくること

ある時ふと見えてくることがある。
疲れ果てるまであるまちを歩き続けると、初めての場所で、地図を携えなくとも、自然と人の流れが見え、方向が見えてくる。同じ広さの道でも、商店街に至る道と、公園に出る道とでは、すれ違う人の歩き方も服装もどことなく違う。そして歩き続けながら、何度か同じ道の同じ所に出るうちに、その辺りが自分にとってのそのまちの中心であるような納得をする。
そこから組み立ててみると、住むということとは別の、そのまちのイメージに近づけるような気がする。

おそらく、自分の家への道順を人に教えるときも、同じようなことを考えているだろう。できるだけ、そのまちの雰囲気の中を歩いて欲しいためだ。

隣の家が息詰まるほどにそばに建ち、窓は開けるものではなく、ただ光が入ってくるだけの役割となるには、低層の家は不向きである。土地が狭まるたびに隣が押し寄せ、そのため人の視線を気にせずにいられる塀が張り巡らされている。
「うちとそと」との境界は家にではなく、その敷地の境界に表現される。そこでは、道はただ通り過ぎるための空間となり、家並みは道に押し寄せ、木は塀の中に閉ざされる。

それが駅周辺の町であればむしろ似つかわしいかもしれない。そこは、多様な、大勢の人の通行を確保しなければならないし、その家並みの扉の中に入ることがそのまちの求めていることなのだから、道の機能も変わるのだろう。

しかし庭木が削られ、開かない戸口が続く家並みも、普通の路地の風景として受け入れる必要があるのだろう。そこは別にミニ開発により生まれた一角ではない。
例えば、ゆったりとした庭を生み出す50~60坪の敷地が、時を経てまちの豊かさと貧しさに分ける分岐点であるとしても、或いは木々がこんもりとした広い庭が残されていることが、まちの風景を支えるものだとしても、この土地の価値が家の建築費以上になってしまった都市で、風景の豊かさを求めることは難しくなっている。

まちを敷地の中から見ていくか、道に立って見ていくか、その差は意外と大きい。
今や個々の家は、町並みを作り出そうとしていない。
高騰する土地問題を避けてまちの風景すら語れない。その土地問題は、まちのそこここに現れている。空地がなくなった今、少し前のまちの匂いを嗅ぎ取ることは難しくなっている。
もう今までの風景を、ここでは捨てる必要があるのだろうか。

少しのスペースが、一本の木がまちを豊かにしていく。移り変わりの中で、それが必ずしも今までの連続線上にないとしても、残された古くからそこにある家や樹林との共存を目指すことが必要なのだろう。


杉並まちづくりノート7 [杉並ノート]

杉並まちづくりノート7

2.まちの風景

3)まちの内側
それでは、地区の奥深く入った場合まちの姿はどうだろうか。

基盤が整った地区では、少し広い道では、二階家が続いていても遠くまで見通せる。しかし、どこまでも真っ直ぐで、どこかに屋敷林が見えないと、歩く勇気は起こらない。しかも時々、制限速度を遥かに超えて自動車がすぐ横を通っていく。白線の外側を歩くと電柱が邪魔をし、視界を妨げる。
隣に誰かがいて、目的地がその道沿いにあるのなら仕方がないが、見通しのききすぎる真っ直ぐな道は、せめて自転車が欲しくなる。自転車でやっと町並みの変化が楽しめるスケールになる。
道端に畑が残っていても、田園風景はもう浮かんでこないが、遠くまで視界を楽しませる大きな欅は別だ。

道は曲がり、少し細い方が、歩く場合には助けになる。
道沿いの建物を冷やかしながら歩けるのも、車が来ない道ならではのことだ。庭の四季が感じられる道なら時間はゆっくり過ぎる。或いは見通しが悪いから、突然現れる近所と不釣合いな家も鑑賞の対象になる。
そこに坂があればもっとよい。そしていつの間にか、そのまちの外れの川に出る。

予想もしない町並みに誘われることが、杉並を歩く場合に合っている。
多くの場合、まちは重層的にできている。まちは途切れることはなく、奥へと誘う。しかしその道でどこまでいけるかは、遠景が見える見通しのきく道にもう一度出る必要がある。

まちは見通しのきく軸と、それを補佐する道を必要とする。
まちを知るには、その狭い方の道を辿るほうがよいのだろう。そこが家々に辿り着くところだし、生活が滲み出すところだから。しかしその小さなブロックから都市を見通すことはできない。都市から辿れるのは、そのまちの外側にある見通しのきく道までであり、曲がりくねっていても人々が集まってくる旧道までだ。都市とまちはそこに接点をもつ。
まちの風景は、見通しのきく道から一歩内側に入ったほうが見えてくる。例えば、二階家が続き、庭の木々が優しい影をつくる狭い小路の方がまちの雰囲気がかぎ取れる。

まちの風景は、単に町並みの外観や道の景観にとどまらず、家並みの向こうにある木や、人々の歩き方が見える雰囲気までを含むのだろう。
庭木が時を経るに従ってその小路の風景の一部になっていくまちがある。
丁寧に整備された公園よりも、桜が二本ある広場の方が似合うまちもある。
そして見通しがきかないために、知らない人の通行を減らし、独特な街路となっているところもある。
外に対して閉じられてはいるが、住んでいる人たちの暖かさが感じるところもある。

しかし、その迷路のようなまちを出たとき、初めての客にはすぐ分かる方向が欲しい。
駅に通じる中杉通りの欅並木とはいかなくとも、地図を持たずとも、どちらに行けば食事ができるのか、休める場所はどこなのか、裏道はそのまちの人だけのものでもよいが、せめて少しでも表になる道にはサインが欲しい。


杉並まちづくりノート6 [杉並ノート]

杉並まちづくりノート6

2.まちの風景

2)まちの見通し

都市の見通しとは、その都市の構成の確実さと秩序に求められるものだろう。それは平面の地図上でも伝わってくる。
それに対して、まちの見通しは個々の町並みの雰囲気が与える全体的な風景であり、地区毎に異なる。
その差を作り出す要素は、それぞれの地区がまちになり出した時代の差が大きい。

まちを一つ一つ寄せ集めていくとある構成を持った都市のイメージが浮かんでくるが、都市を分解していった時、モザイク模様を通して空間の構成まで見えても、そのまちの中までは行き着かない。

全体を眺めようとする発想からの都市の見通しのテーマは、基本となる軸線・空間の配置を通して、都市を構成する諸施設のつながりを探すことである。そのため、幹線となる道路がヒューマンスケールから失格の烙印を捺されれば、その代替として例えば川や水路にそれを見出そうとする。
この間、人が改造しきれずに、都市内でありながら、生活の外部空間として生き延びてきた河川は、不思議な、見通しのきく空間を持つ軸である。

しかし都市にとって軸となる幹線の道路も河川も、まちにとっては外側にある空間である。
そこから見えるまちの表情は、例えば幹線道路であれば道路に向いた町並みであり、そこに古くからある家はむしろ邪魔者扱いにされていく。河川では、最近やっと堤に高木が認められるようになり、また河川沿いの樹林が復活し、市街地にとって貴重な空間となってきたが、まちの外側の風景であることに変わりはない。

このように、都市を最も見通せる道路や河川が、まちにとっては遠景に配置される高層のビルの列や、崖線に立つと現れる樹林の連なりといったまちの外側の風景要素となる。

例えば環七の沿道整備で感じたことだが、環七を挟んで対面に住む人々のつながりは途絶え、まちは環七を背に奥に延びている。それはまた例えば古い地図で街道に直行する細い畦が集落や水田を結びつけ、奥に延びるコミュニティを成立させていたことにも通じる。
まちは強い軸の沿線にその外側の顔を持ち、中に入り込むにしたがって、それぞれの特徴を現しだす。しかしその外側の顔は、背後のまちの姿を現しているとは限らず、その軸に向かって必要な化粧を施している。

古い道は、今はまちの中に隠れてしまった。しかしその道は、道なりに行けば、いつの間にか杉並を通り抜けていく道であり、その道にとっては不思議ではない社寺林に所々で出会う。町並みは、最近まで街村だった名残を残し、懐かしい近隣型の店を持っている。そしてすれ違いがやっとの道にバスが通っており、今も人々はまちの中からその街道にアクセスする。
新しく引っ越してきた人には、何故そこが都市の軸なのかはもはや見えないが、他の道を歩いていても、自然とその街道に導かれていく経験を経るに違いない。

その新しい人々にとって、そこが田んぼの中であり、前から住む人にとって様々な出会いの場であったことは、それほど重要ではない。ただ、他の道とは少し違った雰囲気をそこにかぎとれれば、風景に共有に少し近づける。


杉並まちづくりノート5 [杉並ノート]

杉並まちづくりノート5

2.まちの風景

1)まちの風景の今日

次に見る必要があるのは現在であろう。今のまちの風景をどう見ていけば、まちに少しでも近づけるのだろうか。

移り変わりの中で、その都度異なった顔を杉並は見せてきた。その時々の町並みの変化は、新たな人々が移り住んできた証でもある。そして別に違反建築ではなく、一定のルールに従った建築が建ち並んだ時、元から居た人にとって周りに家が押し寄せてきたような、生活空間に忍び寄る変化がまちに訪れた。そして今生じている急激な地価の値上がりは15~20年前に起こった宅地化の広がりとは違う家の作られ方を加速するだろう。土地が狭まるたびに近づいてくる隣の家はその始まりである。

空地が殆どなくなり、道端での立ち話が車によって遮られるようになった町、 
子供にとって抜け道がなくなり、家々の境が強固に守られるようになった町、 
駅の周辺や幹線の道路沿いの高いビルに遠景を求め、どこまでも迷路を辿らざるを得ない町、 
閑静な住宅地の中にミニ開発が現れ、それが次の町並みに転じていくことを予感させる町、 
道路に沿って辛うじて一皮によって商店街が形作られ、或いは騒音にさらされ転居を考える人々のそばにマンションがそびえる町、 
基盤が整いどこまでも均質な町並みが続き、訪ねる人に困惑を与える町、 
水辺につくられた公園の緑は濃さを増し、高木の屋敷林が残り、社寺林が住宅地の中に守られている。
昼と夜の風景を一辺させる駅周辺にも、穏やかに時間が変化する住宅地にも、一日中明かりがついている店が現れ始めた。

杉並もまた種々の顔を持ち、都心寄りの地区から、或いは駅の周辺から、言い換えれば初めに市街化が現れた地区から、町の高さや、見通せる空の広さが変わっていく。
種々の水準にまちはある。ある地区は30年前のままであり、木々が多く、生垣が連なる。戦前から続く洋風の趣の残る家がある。

ある地区にはビルが押し寄せ始めている。稠密な市街地では土地の更新にあわせて、土地の細分が進む地区もあれば、マンションが突如現れる地区もある。基盤の整った地区でも、所々で土地の移り変わりが始まり、周辺とは異質な家並みが現れている。
取り敢えずのスタートは、この多様なまちのありようを認めつつも、その中に今を表現するまちの風景を見つけていくことなのだろう。

まちの問題は見る人によって、また見る立場によって異なる。一間しかない路地裏を歩くことが好きな人もいれば、そこに火事の心配をする人もいる。そのままにしておくべきだと考える人もいれば、防災上の手当てを主張する人もいる。そこに住む人はさらに違うことを考えているかもしれない。それが経済的な理由や、家庭の事情や、権利関係の問題を含んでいれば、一本の路地でも一つの解答を得るのはそう簡単ではない。

樹林地を保護したくとも、経済的な裏打ちがなければどうなるか。また東京の近県での話だが、行政の土地にすると手を加えてしまうから、樹林地を残したいなら民有地のままの方がよいという話にも耳を傾けるべきだろう。
善福寺川の上流にそのまま残された水辺は都市の中では珍しい空間を保っているし、和田堀付近の緑が意外と深いことは、新たな行政の試みとして重要な側面を示している。或いは市街地では樹林地とまでいかなくとも、高い木が残されていることが貴重である。そして杉並には樹林地が多く残っている。

道を歩く時に触れる生垣と、家の向こうにある高木がそのまちの景観を支えている。


杉並まちづくりノート4 [杉並ノート]

杉並まちづくりノート4

1 まちの移り変わり

3)移り変わり

まちの移り変わりを追おうとするには、余りにある視点に偏っていることに気付く。
それは現在を貧困とみなすか、それとも豊かであるとみなすかにも通じていく視点である。ここで思い描いた出発を大体昭和の初めの頃とすると、当時はもっと貧しかった。不便だったし、下水道や電話はおろか、電気やガス、水道も限られていた。普通の家は、雨漏りがするほどに、もっとみすぼらしかった。道もよくて砂利道だった。しかし、ここに至る過程を都市の成熟というのは難しい。

東京の郊外には空があり、未だ武蔵野の自由を遊べた、イメージの中に漂う古き良き空間に戻ることはできなくとも、どこかをスタートにして、今までの道筋のまま進むべきなのか、それとも少し軌道修正を図るべきなのか、或いは今のまま止めるべきなのか、一度立ち止まって決めることも必要なのだろう。

都市が若く、可能性があった時、全てが良かったわけではない。ある時、突然止め処もない活気が押し寄せて、現在に近い風景まで一挙に達してしまい、その後の変化は土地が細かくなることと平行に進んだ。しかし人々の意思を確かめずに、今、このまま進み続けることを、少し休むことが必要であるような気がする。

高いビルが突然町の中に現れ、広い道が抜かれていくことが、町の新たな活動を生み出すものであっても、もっと町に住む人に優しくあってよい。余りに無防備な町に、余りに急速な変化があり過ぎた。そして、その急速な変化の時に移り住んだ人にとって、田園風景は、それほど杉並に似合っていないし、馴染みのある風景ではなかった。
また、中央線の駅周辺の雑然とした飲み屋だけに通った人にとって、その裏側に整然とした広がりを持つ杉並の町はイメージとしてつながりをもたない。

まちの移り変わりは、どの視点から見るか、いつの時点から見るかによって違ってくる。百歳を越す古老には、目の前の風景は時間を遡り、まちのあちこちに嘗てあった田畑や小川、杉林が見え隠れするかもしれない。しかし、20才の人には今の町並みが杉並の原風景であり、ふと見かける崖線沿いの樹林や、所々に残る欅を目にしても、過去の風景に出会うことはない。

まちの移り変わりを追っていくことを通して、まちづくりに直接結び付けていくことは難しい。今まちを復元することはできないし、風景は一人ひとりの中に宿るだけでよい。
しかしその中から、今何を思い描きまちと付き合うかが出てくるような気がする。例えば公園を制御のもとに置くのではなく、嘗ての風景を刻み、押し寄せてくる家並みを止める手立てや、家や道のつながりを新たに求めていく方法がである。
またそれは、或いはそこに住んできた人々の記憶を排除していくものかもしれない。とにかく昔通った道に出会わなくとも、まちはここまで来てしまったのだから。


杉並まちづくりノート3 [杉並ノート]

杉並まちづくりノート3

1 まちの移り変わり

2)地図に埋め込まれた記憶

例えば国土地理院の地図の変遷から読み取れることは次のようなことである。

明治の初めの頃、東西方向に川と街道が配され、街道沿いの街村と雑木林と田畑の中に集落が見える。
そして、大正には東西に真っ直ぐな中央線が現れるが、杉並は田園の記号で埋められている。
大正から昭和にかけて、中央線に高円寺と阿佐ヶ谷の駅ができ、荻窪駅に通じる青梅街道に市電が走り出し、中央線沿線に大規模な井荻土地区画整理が始まり、都市化の動きが現れる。と言っても、田畑や杉林は市街地の広がりを推しとどめ、周辺に集落の印が伝播しているにとどまっている。

昭和20年の頃まで、市街化は基盤が整った区の北西部を中心に徐々に進んだが、神田川や善福寺川沿いなどの低い谷部は水田として残っていた。
戦後の井の頭線の駅の新設や、昭和30年代後半のオリンピックの前に、方南町までの地下鉄の延伸、環七や青梅街道を初めとする幹線道路の整備によって、一挙に稠密な都市化の時代に入った。
ついこの間まで見えていた小さな川が地中に埋まり、田園風景も東京の人口を受け止める団地の開発を契機にした市街化の波の中で、昭和30年代に多くは姿を消した。

農家が住宅地のすぐそばにあり、畑が住宅地を囲んでいた風景から、畑が切り売りされ住宅地の中にぽつんと残され、そして姿を消していった時代がすぐそばに見える。しかし住宅地の中に空地が点在し、子供にとって幾つもの通り道があった空間はもう見えない。
そして、まちは道をつくりながら、道に沿って二階の軒を連ね、空を狭め、遠景は幹線道路沿いや駅周辺のビルにとって代わった。

この間の変化は二段階あり、大正から昭和にかけての田園から郊外へのゆっくりした移り変わりと、昭和30年代以降の残された田畑から始まった急速な市街化の進展である。

それを例えば土地の選択の変化に見れば、借地が基本だった定着の方法から、都知事新の取得を中心とした移転の方法への変化とも言える。
土地がいくらでもあり住むのに都合のよい場所を歩いて探す方法から、住めそうな土地を紹介される方法に変わり、土地が少なくなり売り出された土地を探す方法への変化、土地の商品化の流れがみえる。

或いはそれは、例えば土地の広さの変化にも見えよう。
100坪の土地が決して贅沢ではなかった時代から、急激な市街化の波をくぐると50坪前後の家が平均になり、そこにあった空地が無くなった。代替わりのたびに、100坪の敷地が半分にそして更に細かくなる。土地の大きさは、時代の変化を現わしている。

その土地の変化に反比例して、家並みが一階から二階に変わり、屋敷林が消え、隣の家が押し寄せてきた。生垣は固い塀に代わり、人々は自分の敷地に閉じこもった。
まちを歩いていて気付く道に張り出してくる町並みの変化は、住む人にとってもっときびしい圧迫になるだろう。
コミュニティの強制はなくなり、自分からそのつながりを選ぶことが出来る時代への変化はあったが、今度は物理的に隣の家が迫る空間の圧力に取って代わった。マンションに住んで窓を開けると、すぐ裏の二階の雨戸が閉まるといったわびしさが、普通の住宅地の中にもある。

宅地化される余地が少なくなるほど、相続があるたびに土地が小さくなり、住む人が変わっていく。そして、ある小路にミニ開発があらわれると、すぐに周辺に伝播していく。

以前から住んでいた人にとって見える町の移り変わりは、地図の変遷とは違う。
庭も見ることが出来ない路地は、田んぼの風景が蘇ることを拒んでいる。
すぐそばだった家は、今は隣の町名になっている。
そして前は広かったはずの街道は、今はすれ違うのがやっとの広さに変わっている。遠くまで見通せる畦道の方が道に迷うことはなかった。

※今日、この杉並ノートを書いた切っ掛けとなった、20年も前のシンポで話を伺った吉田桂二さんの個展「イングランド コツウォルズの風景」を、連合設計社市谷建築事務所に新しくできたギャラリーRASHで見てきた。広い、明るい事務所空間で、ギャラリーのほかに木造建築学校のスペースを作り出すために、40年目の模様替えをしたそうだ。今日が最終日だった。毎年、吉田さんのカレンダーを手にするのが楽しみで、年に一度個展のときにお顔を拝見する光栄に預かっている。私の七夕は、暮にも訪れる。


杉並まちづくりノート2 [杉並ノート]

1 まちの移り変わり

1)まちの記憶

同じ道が続く。 ただ時が移り変わり隣に歩く人がいない。 或いは、昔の道の記憶はついに蘇らず、ついに辿れない。 風景の余りの変わりようは、まちの記憶ではなく、ある時の記憶を蘇らせる。 おそらく固定すべきものはまちではなく、自分のその記憶の時なのだ。 風景は、固まりはせず変わり続ける。 そこに探すものは、自分が保有した時への愛惜と迂回せざるを得なかったこの経路への執着なのだろう。 その時、元の風景は人々の個々の記憶の中に定着していく。 時は一挙に飛び、風景は目を閉じると浮かび上がる。 それが今と違った空間であっても、人はその風景を自分の時とともに固めている。

人は風景の変化を拒むわけではないし、イメージを守るために地図を辿るわけでもない。迷い込んだ町や、その途中に出会った町は、新鮮な記憶を残している場合がある。しかし、一時期を過ごした町は、妙に不安な記憶を伴う。そこにはその時はなく、人は変わり、見てしまうと壊れるようなそんな不安である。そして外観ではなく、その時に何かがあった場面が画像の中を占める。例えば、遊びの外にいた自分がいて、その時の人はいないのにその人がいて欲しいような拒みがたさが自分を占める。その中に残るイメージは広さをもった町ではなく、前後には何もない町の中の点であり、その時の光の中で固定された道端のパースである。

このようなまちの記憶は、それぞれの人に分かれ持たれていく。だから、そんなまちについては誰も人には話さない。しかし話はいつもその場面を思い出している。あるまちを自分の中に作り直していく場合、そんな方法も必要な気がする。

杉並のまちの移り変わりを見ていく時、田園風景がすぐそばに、手に届くところにある。環七の高円寺の70近くの人の川の氾濫の話もそうだったし、40代の宮前の人の畦道の話もそうだった。谷川さんの話の中の田んぼの話や五日市街道の話も印象的だった。
おそらく中央線の駅前を除いて、杉並の人々の風景は、井伏鱒二が居た田園の広がりであるような感じがする。杉の木立と農家の屋敷林と、畑と水田と雑草地と、いつも氾濫する小河川の中に点在するまちがおそらくすぐ目の前に現れる。
その時青梅街道や五日市街道は、広いどこまでも通じる道だった。そして高台からは富士山が見通せ、畦を通って遊びに出かけることができた。
東西に走る街道を軸に交通が流れ、細い道を通ってそこに出れば、方向を間違えることはないし、街村には店があった。小河川沿いの崖線の緑は、方向を示す指標として目立つ必要はそれほどなかった。もっとまちは見通しがきき、川がそこにあるだけでよかった。
今のように、まちは、道路沿いしか見えない風景ではなく、人の目の高さで遠くまで確かめることができ、家々の集合も見てとれた。
中央線沿線が、駅の周辺を除いて畑が続いていたことを記憶している人も多いだろう。
当時、家はそれほど敷地の境界を意識せず、外と途絶することは少なかった。知っている家であれば、庭先まで入り込んだ。それは都会の人には煩わしいことだったかも知れないが、その土地の人にとっては当然のことだった。
今では出会うことが少なくなり、周辺から隠れてしまった洋風の館も、それほど違和な空間では無かったろうし、おそらく阿佐ヶ谷らしさもそこにあった。こんなに隣の家が押し寄せてくるとは、誰が予想したろう。和風の家の一角にある洋風の部屋の出窓に、人の影を求めていたことはもう昔の話だ。小路を歩きながら、その季節を庭々に感じたまちの風景は、もう少し辿れば田園風景に出会えた頃のものだったかもしれない。
ただ、その時は、隣の家から忍び込む視線そのものではなく、人々が当然のように許していたプライバシーの侵害が、おそらく人々を傷つけていた。


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